裏・表があるくらいで人間はちょうどいい


一人でいるときや親しい人の前で見せる自分と、より公的な場で見せる自分は違う。まぁ意識しなくたって自然と使い分けてる人が多いと思うんだけど、少し前まで僕は自分の中にそういうギャップがあることに違和感というかバランスの悪さをかんじていて、なるべく両者を統一しておきたいと思ってた。こういう心の作用自体は自然なことなのかな思うものの、気を付けておかないと危険なことなのかも、と最近は考えてる。


いわゆるブラック企業と呼ばれるところでこき使われ、過労死する人がいるらしい。そういう人はある種の洗脳状態にあるのだと思うけれど、ここでいう洗脳とはつまり「本音と建て前を切り替えられなくなった状態」「本音と建て前が同化した状態」なんじゃないか、と思うのだ。両者のギャップがひどくなれば、それに耐えきれず建て前を自分の本音と思いこもうとする。すると自分の気持ちの中でバランスもとれるし、不安定な状態からは逃れられる。自分の置かれている環境へ適合できるから楽になる。でも実際は自分の心を相手にあけ渡してて、キケンな状態だ。

うつ病になる人には生真面目な人が多いらしい。ここでいう真面目さって、「オモテでは要領よく周りに合わせたり打算的なことも口にするが、ウラではその真逆のことを平然としてのけたり、普段仲良くしてるように見える人の悪口も言う」こういうのに罪悪感を感じたり、なんらかの義に反するような気持ちが強いことを含んでるんじゃなかろうか。


建て前と本音の切り分け作業がうまい人って、比較的明るい人が多い。「自分は今建て前を話している」「今は本音を話してる」こういうのを自分でわかったうえで話してるうちは健全なんだろう。言ってることや態度にあまりにギャップがあるとただの信用できない人だけど、「自分」ってものが他より曖昧で影響を受けやすいと自覚してる人ほど、ある程度ウラとオモテを意識的に切り分ける術を身につけといたほうがいいんだろうなぁと思う。程度によるが、人間、裏表があるくらいでちょうどいいのだろう。

ビッグリバーシ

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