「自分が無い」と感じることについて

僕には“自分”が無いのかもしれない、と感じることがたまにある。きっかけは大抵ささいなことなんだけど、あなたはどう思う?どうしたい?と訊かれたときなんかにとっさに答えが出ずウッと詰まり、とりあえず周りの意見なんかを参考にしている自分に対し「あー僕には自分が無いんだろうか」なんて考えるのだ。


常に自分の答えが必要だとは思わない。特にこだわりのないことはなら、それこそ他人に全部委ねてしまえばいい。その方が単純に楽でもある。こだわりがないってことは興味がないのだから、無理に考えるのは辛くて当たり前だろう。しかし興味やこだわりがあるのに自分の答えが出てこないというのは、それはそれで違う辛さがある。何とかひねり出した答えも他の人の意見でよりよいもの、上位互換的なものがあればそれに乗っかり、代替してしまうかもしれない。それもまた「自分が無い」と感じる瞬間だ。


僕が見ていて「自分を持ってるな」と感じる人が多用する表現がある。それは

自分は(僕は/私は)~で~だから、こういうとき~なんだよね」

という言葉だ。人によって多少細かい違いはあっても、彼らはこの表現をよく使う。何か見たり聞いたりしたものに対し自分の考えを表明するとき、彼らは自分の「内部要因」を一番大事にしているように見える。「自分が何を感じたか・考えたか」を正確に認識する能力に秀でており、それを大切にし、それを貫くことを厭わない。一方自分が無い人は、そもそも自分の感情・思考に対して鈍い。自分の抱く思考・感情にコンプレックスがあってそれを無理に押しこめているか、あるいは「外部要因」を重視しすぎているか。人の目・意見を気にしすぎるあまり自分を抑えることを繰り返していると、気づいたときには他人の意見に振り回され、ふらふらと流れされるばかりの自分が出来上がっている。まさに「自分が無い」状態だ。


「自分が無い・わからない」人はたぶん、変化することもできない。あるいは変化できても、「自分がある」と感じることはできないと思う。自分がどこにいるのかわからないのだから、迂闊に動くことさえ怖くてできない。真っ暗闇で手を前に突出し、うろうろと適当にさまようだけだ。「自分がわかる」状態とはつまり、地図で自分のいる場所が把握できている状態だ。それなら、次はあっちへ行こう、こっちへ行ってみようと変化するもの容易いし、足取りも確かだろう。まずは足元に目を向けたいなと思う。「自己啓発」と一般に呼ばれるものが有効なのはこの「把握できている人」だけだろうし、できていなければおそらく成功しない。あるいは成功したように見えて、たぶん足は宙に浮いている。


歴史を紐解くべきなんだろう、と思う。
「自分探し」なんて言葉があるけれど、最近は良い意味で使われないことが多い。、自分探しをするなんて言うけど、じゃあ探してるあんたは誰なんだ?というわけだ。たしかに「本当の自分とは」なんて問いには掴みどころがなく、ちょっと考えただけじゃ答えが出るはずもない。やるだけ無駄かもしれない。しかし最近思うのは、それでも“自分”がどんな人間なのか、その輪郭くらいは掴んでおく必要があるだろうということだ。自分のことを誰よりもよく知っているはずの自分が自己認識できなくて、誰ができるのか。「自分が無い」まま生きていけば、たぶん皆、いずれ必ず行き詰るだろう。そのとき「歴史を紐解く」ことが一番確実な「自分探し」ではないかと思う。つまり今まで生きてきた何十年かを振り返り、起きた出来事や経験と、その時々で自分が下してきた選択から、具体的な自分像を浮かび上がらせるのだ。


自分をつくる下地が一枚のキャンパスなら、自分を形作るのは絵具であり、その色のようなものだ。自分がしてきた経験、下した選択、得た知識、仲の良い友達、憧れの人物、好きな本、映画、食べ物。そして僕なんかはおろそかにしがちだったけれど、嫌いなもの、苦手な人・モノも立派な自分の「色」だ。HUNTER×HUNTERの第一話に「その人を知りたければ、その人が何に対して怒りを感じるかを知れ」という趣旨の言葉があるが、コンプレックスや怒りはなぜそれを感じるのかを突き詰めていくと、必ずと言っていいほど自分の考えの根っこの部分に行き当たる。自分の弱さだから思わず目を背けたくなるんだけれど、それもまた自分を構成する色だと考え、肯定したい。それを表現する手段さえ間違えなければいいのだ。

こうした自分の「色」は何種類も重なり合い混ざり合い、唯一無二の色が出来上がる。絵具で赤、青、緑、黄色、茶・・・と適当に混ぜ続けるとわけのわからない濁った色になるけれど、人の場合そうはならないはずだ。そこには何かしらの傾向とか癖があって、なんとなく赤っぽい暖色系かなとか、青っぽい緑かなとか、真っ黒に見えるけど遠くから見ると茶色っぽい黒だなとか、そういう偏りがある。その意味では「自分が無い」人なんていない、とも思う。


「人から見た自分」と「自分で思う自分」はけっこう違うことが多い。そのギャップが自己認識より他己認識の方が上だった(自分が思っているよりプラスだった)場合、ちょっと嬉しく感じる部分はあったとしても大抵は素直に喜べないし、戸惑ってしまう。逆はもっとそうだろう。「評価経済社会」とか「一億総表現者時代」なんて言葉をよく目にするのも、ネットがより身近になって、今までないくらい「他人の評価」にさらされることが増えたってことだろう。今まではリアルの人間関係、多くても数十人程度だったものが、ネット人口が増えたことと自らそこに参加することによって数百人や数千人、人によってはもっと多くの人に評価されるようになった。「人から見た自分」だけが肥大して、「自分が思う自分」は相対的にどんどん小さくなる。そう考えるとネットと共に育った若い人に「自分探し」がしたくなるくらい疲れてしまう人が増えても、不思議はないなと思う。


「上手い自分探し」があるとするなら、さっき述べた「歴史を紐解く」ことのほかに(あるいはその手段もかねて)、何かしらのアウトプットは必須だろうと思う。自分の考えをこうして文章にすることでもいいし、何かやりたいことがあるならやってみるのがいい、経験してみるのがいいと思っている。それこそ「自分探しの旅」とかでもいいんじゃないかと思う。知識とか経験とか好き嫌いとか、細かいパーツが積み重なってひとつの色を作り自分を構成する要素になるんだから、「自分探し」にアウトプットは欠かせないはずだ。またそのアウトプットを終える前か後か、紐解いた歴史や色を踏まえた自分なりの“入射角”が見つかれば、一応の成功と言えるんじゃないかと思う。言い換えれば自分の価値観とかやり方とか、あるいは世界を通して見るフィルターだ。自分に「しっくりくる」それが見つかれば、生きやすさから変わってくるという気がしている。

Mr.Children 1996-2000

Mr.Children 1996-2000

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