育児雑感 出産前~生後7日目くらい
子供が生まれてから約100日が経過した。まだ100日かという気もするし、もう100日かという気もする。
子供はもちろん自分の心境の変化も大きいので忘れないうちに記していこうと思う。
出産直前に遡る。思い返してもなかなかハードであった。もちろん僕自身ではなく妻が、である。予定日を3,4日過ぎても出てくる気配がないのでしびれを切らし促進剤を投与。1日目は歩いたりなんだりして腹の子をせっつく。僕は家に帰ったが割と夜遅くまで頑張っていたとかいなかったとか。
次の日、陣痛強まる。しんどそうだった。一定間隔で訪れる痛み。点滴を打ちながら目に涙を浮かべて耐える姿に、申し訳ないが自分に同じことはできないだろうな、代わってやりたいなどとは思えない痛いのは嫌いだから。こりゃあ大仕事だとただただ横で見守った。早く出てきてやれ、と腹の子に思った。しかしながら、結局その日は出てこず。少し頭が下に下がったくらいで、まだまだ出てくる気はないらしい。
さらに次の日、昼を過ぎてようやくお産が始まるぞと医者から説明あり。無痛分娩だったので麻酔を投与。いよいよかー!?と思ったのもつかの間、帝王切開にしますとの説明あり。え、え、なんで?と内心焦る。ここにきてお腹を開くとは思っておらず。しかしながらどうもへその緒が若干短いらしく、下から出てくる際に赤ちゃんの息が苦しくなって、心音が弱まったのを確認したらしい。そんなことがあるのか。では仕方ない、ここはプロの判断に任せるしかない。同意書にサインし即手術室へ。別の部屋で自分は待機。今か今かと待っていると外から産声っぽいのが聞こえる。始まって15分くらいで無事生まれた。やったね。生まれましたよと先生に呼ばれていそいそと分娩室へ。そこにはカートに乗った我が子。赤ちゃんだしギャン泣きしてるのかと思いきやおとなしくて、眠いのかわからないがぼーっとしていた。顔が赤い。そして自分の弟になんか似てるなと思った。女の子なんだけど。掌に指を近づけてみる。よわよわの把握反射を確認。はじめて抱っこしたが、小さくて軽いような重たいような。人間だと思うと軽いし無機物なら重く感じるかも、いずれにしろ3.5㎏。泣いたりはしなかったが、じんわり来ていた、と思う。一緒に写真を撮った。
生まれて数日は毎日面会時間をフルに使って会いに行った。基本的には寝ていてめちゃくちゃおとなしい。ちょっと泣いてくれたほうがこっちも相手のし甲斐があるが、いい子で寝ているのでそのまま眺めているしかない。起きても基本的にはぼーっと虚空を見つめていてこちらがちょっかいかけてもレスポンスは薄い。唯一、授乳トレーニングの際は大泣きして暴れ倒す。しまいには寝たふりして授乳を拒否しだす始末で、こんなチビにもたしかに快不快があるらしいこと、必要とあらば抵抗も辞さない姿を目にして、頼もしく感じる。
入院中は初孫ということもあり入れ替わり立ち代わりテンション高めな親戚共が押しかけて顔を見に来た。多いときは部屋に10人くらいが詰めかけて話し声がうるさい中でも起きることなく子供は爆睡していた。面会時間が終わると家に帰って、撮りまくった動画を観返したり写真を見ながらスケッチしてみるなどした。
予定通り、1週間ほどで無事退院。初めて子供を乗せて運転する車はやはり少し緊張した。
世界が変わるまであと少し
たぶん明日子供が生まれる。ここ10か月お腹で育つ過程を間近で見ているから、存在感はもう充分ある。腹越しに声をかけるとボコボコと動いたりしてコミュニケーションまで取れている。そういう意味ではすでにこの世に生まれているし家族の一員なのだが、やはり違うのだろう。そいつが”こちら”の世界にいるといないとでは。0と1くらい、わずかだが、決定的な違いがあるのだろう。子供もだが妻には頑張ってもらうしかない。そして今この時を健康で大した悩みもなくじっくり噛みしめることができる、これまでのすべてに感謝したい。とにかくトラブルなく無事に運んでくれたら何も言うことはない。
なんというか、本当の意味で独身時代が終わるのだなと思う。いろいろあったが楽しかった。生まれたら、よく聞くように、子供を通してまた人生をやり直すような感覚になるのだろうか。子供がハマるものに一緒にハマったりしたい。世界が変わるまであと少しだ。
人生に意味はないから
生きてる意味とは、人生に意味はあるのかという問いに、少し前までは全く興味がなかった。
最近になって、去年くらいからだろうか?時折頭をかすめる。
いにしえの賢者が、TVの知識人やSNSのカリスマが、自分なりの答えを残したりもしている。
人生に意味はないなと思う。誰の人生にも等しく意味がない。
自分のような凡夫であろうと大谷翔平だろうと変わらない。引いて見ればみんな生きて死ぬだけで、多少の功績や作品を後世に残したりもしているが、自分は死んでいるのだから感知できるはずもない。
偉い人が聞いたら間違っているのかもしれないが、生命の本質はリレーのバトンを繋いでいくことだと考える。
こと人間の営みにおいては、バトンを繋ぐというのは自分の子孫を残すというだけでなく、かかわった人に与えた影響がその人を変え、その人がまた他の人に影響を与えと伝播していく様を思い浮かべている。自分が生まれて死ぬまでの間に、何かを、いかほどかわからないが人に伝える。あるいは互いに交信し合う。
何かが伝わること、交信することに喜びを感じるのは、それが生命、人間の本質だからではないか。(昔NHKか何かで見たTVで、生まれてすぐ生殖行為を行いそのまま死んでいくタコだかイカだかの生態ドキュメンタリーがあって、この生き物は何のために存在してるんだろうと思ったのを思い出した)
引いて見ると人生に意味はないから、せめて自分や周りがなるべく多くの幸せを感じて生きて死んでいくためには、伝えることが上手くできると良い。自分をもっとも伝えられる表現手段を見つけて磨くことが、幸せになるひとつの方法なのではないか。
去年あたりから人生が加速し出したのを感じる。来年からはもっと加速するだろう。
親が自分を産んだ年齢は数年前に過ぎている。こうしてあれよあれよという間に年を取って爺さんになり死んでいくのだろう。いや、爺さんになるまで生きられるかわからないが。人生なんてこうやって過ぎ去っていくだけのものなのだなぁ
なんて思っている。