福部里志はなぜチョコレートを砕いたのか

米澤穂信古典部シリーズ「遠回りする雛」収録の一編に「手作りチョコレート事件」がある。
初めて読んだのは10年ほど前だが、何度か読み返しても、福部里志のとった行動に納得がいかない。
福部里志はなぜ伊原からのバレンタインチョコレートを受け取らず、ましてや砕いてしまったのか?である。

最近アマゾンのオーディブルを始めて、夜のお供にすることが増えたわけだが、
昨夜「手作りチョコレート事件」を聴いたので、改めて考えてみた。おそらく作者の意図する正解ではないものの、
自分の中でひとつ仮説が立ったので書いてみたい。

以下、事実関係を整理する
・伊原が福部にバレンタインチョコレートを渡そうとする(中3冬と高1冬)
・福部は受け取ることを拒否する
・背景としては
 ・自分はかつて、あらゆることにこだわりを持ち、一番になることに執着していた
 ・その結果、勝つこと、一番詳しくなることなどが目的化してしまい、対象そのものを楽しめなくなっていた
 ・それに気づいて以来、何かにこだわることをやめ、「こだわらないことのみにこだわる」を信条とするようになった
 ・するとさまざまなことに薄く広く興味を向けることで、肩の力を抜いて楽しんだり、面白がったりすることができるようになった
 ・この信条は今や、福部の生き方にとって欠かすことのできない”クリティカルな”ものである 
問題はここから
 ・しかし伊原から告白を受けたことで、その信条が揺らぎそうになった
 ・告白を受け入れる=チョコを受け取る=伊原に対し、自分の恋愛対象として「こだわる」と宣言することである
 ・伊原のみ例外とするのは受け入れがたい(でも伊原のことは好き)
 ・かつての「こだわる」自分に戻って、何に対しても楽しめなくなるのが怖いため
 ・こうした自己矛盾に思い悩んだ結果、中3冬は受け取ることをはぐらかしたが、1年経っても答えは出ずやむにまれず今回の行動に至った

こうして書いてみると、特定の誰かと恋人関係を結ばず遊びたいヤリ〇ンの理屈に思えなくもない・・・
まぁそれはいいとして。

読んだ当初からわからなかったのは、こうした独白を受けてなお、もらったチョコレートを砕いてしまうほど過激な行動をとる理由としては
あまりに伊原に対する思いやりを欠いていると感じるからだ。
どんな個人的葛藤があれ、それは気持ちの問題であって、何も生命の危機や全財産を失うリスクを背負うようなものではない。
福部の描写からして、高校生でまだ子供とはいえ、極端に常識を欠いた人物ではまったくないし、むしろ周りに配慮できる大人びた高校生だ。
自分を好きだと言ってくれる仲の良い女子、しかも自分も彼女のことを好ましく思っている。
その子が手作りしてくれたハート形のチョコレート・・・多少の信条は曲げて受け入れるところではないか。それが難しくても、砕きはしまい。
「こだわらないことにこだわる」ことに異常なまでにこだわってしまっている。(もはやわけがわからない)
本人曰く、この点は非常に「クリティカル」らしいので外野は何も言えないんだけれど。というかこんな高校生、おるか・・・?

という疑問はさておき、では福部にとってそれほど「クリティカル」なのはなぜか。

結論からいうと「福部は本来非常に嫉妬深い人物であり、そんな自分が嫌いだから」ではないか。

何かに打ち込む、情熱を注いでいる人は多くいるが、外から動機はわからない。
僕が思うに、そこには2種類の人間がいる。
1.その対象そのものが好きで、できるだけ長くそれに触れていたい人
2.その対象を通して自分が成長できたり、理想とする姿に近づきたい人

1はその対象に矢印が向いており、2は自分に向いている。
どちらが良くてどちらが悪いといったことはない。人それぞれの性向に過ぎない。
1のタイプにとって、その対象に注力するのはそれが好きだからであって、一番になるためではない。
2のタイプは良く言えば成長意欲が高いわけだが、勝つこと、つまり周りとの相対的な立ち位置が気にならずにいられない。
(結果として優れた成果を上げやすいのはこちらかもしれない)
平たくいえば”負けず嫌い”ということか。

僕はある意味こういう人が、とても嫉妬深い人であるように思える。
もうわかると思うが、福部は2のタイプでないかと思う。

仮に伊原と付き合いだして、彼女にこだわることを決めたとき、何が起こるか。
彼女の一番になりたい、もっとも彼女に詳しい人物になりたいと思うのではないか。
例えば誰か他の男子と伊原が、自分の知らない話題で盛り上がっているのを目にする機会があるかもしれない。
そのとき否応なく嫉妬にさいなまれる姿が、福部には想像できてしまうのではないか。
そしてそんな自分が嫌いになってしまうかもしれない。福部にとってそれは自己肯定感にもかかわる「クリティカル」な問題なのではなかろうか。

まぁこれら踏まえたうえでなお「いや、そんなのいいから伊原の気持ちだけ考えろ」と言いたくなるが。
そもそもこの辺の行動は理解がしかねる上に肝心の心情吐露もわかりにくすぎて、作者本人に聞いてみたいほどだ。

とりあえず僕の推測はこんなところである。
飄々としているようで、実はとても嫉妬深い福部里志というのも、今後シリーズが続くにあたってひとつ見方が増えたようで
うれしいところ。ということで終わりです。

1ミリも興味なかったはずの『格闘技』にハマった理由、その魅力

あれはたしか、今年の1月下旬ごろだったと思う。
休日に自宅のベッドでごろごろしていたとき、たまたま目に留まったYoutubeの動画をクリックした。
タイトルは「格闘家がごみのポイ捨てを注意してみた」みたいなやつ。
当時は知らなかったが、この数年で「総合格闘技MMA)」を一気に世に広めた朝倉兄弟の弟・朝倉海のチャンネル動画だ。
内容は、簡単に言ってしまえばYouTube版『水戸黄門』。
街でマナー違反をするガラの悪い人に絡んでいくというある種当たり屋的な企画ではある。
それでも「強い人」が「正しいこと」を「礼儀正しく」遂行し世を清めていく姿にはスカッとするし、
それまでオラオラとこちらを威嚇していた人が、格闘家のバキバキに鍛えられた肉体とパンチスピードを見てしゅんとなるのにはふふっと笑いがこぼれた。
一言で言って面白い。

いきなり話が脱線したが、ここから格闘家Youtuberというものに興味を持ち、
さらに格闘技そのものへと興味が移っていったのがことの経緯である。

本題だが、今現在、格闘技にハマっている理由とその魅力を言語化してみたい。

前提として、自分は今年に入るまで格闘技全般に全くと言ってよいほど興味はなかった。
昔、大晦日に曙対サップとかを見て友達と話題にした記憶があるくらい、あとはマサトや山本キッド、亀田兄弟など
名前は知ってて試合も見たことはあるけれど、血は噴き出してグロテスクだし痛そうだし何が面白いのかさっぱりわからなかった。
(ちなみに今でも顔面から血が流れてたり腕や関節の極め技がきまりそうになる場面は目を背けたくなる)
にもかかわらず、今もっとも熱中している趣味といって過言でないのは、以下のような理由がある。

①格闘家の「普通の人」の側面を知ったから

②格闘技の試合は「喧嘩」ではなく「エンタメ」だと理解したから

それぞれ自分なりに掘り下げてみる。

1.格闘家も普段は「普通の人」

格闘技の試合に興味を持てなかった理由のひとつが、ファイター達の気持ちや考えを
全く理解できなかったからだと今にして思う。
正直、全員”狂人”だと思っていた。・・・まぁある意味、今もそれは変わらない。
率直な感覚として、まず痛いことは嫌である。大怪我のリスクや、場合によっては死の危険もあるとなれば
なおさらだ。それに、殴る蹴るで人を痛めつけるのも、それはそれで同じくらい嫌である。
そんな修羅の場へ嬉々として乗り込んでいく様は異様に映ったし、いくらお金や名誉を得られようと、
進んでそんなことをする気になる人の気持ちが本当に1ミリも理解できなかった。なんなら今も理解などしていない。
しかしYoutubeで普段の、つまり試合をしているとき以外の格闘家の生活や姿を知ったのは、この意識にかなり変化をもたらした。
これまでクレイジーな一側面しか知らなかった格闘家というものが、だんだんと立体的に見えてきたのだ。

テレビだけだと、湯気が立つほど殺気を放って目を爛爛とさせている試合中の様子しか目にしないので、なかなか想像が及ばなかったが、格闘家だって人間だ。
24時間365日地獄のトレーニングをしているわけではない。
友達と遊ぶし、格闘技以外の趣味だってあるし、彼女や奥さん、子供がいる人もいる。
どうでもいいことで笑うし、冗談だっていうし、ちょっとしたことで落ち込んだりもするのである。
ここはよく言われるように、Youtube総合格闘技を広めた朝倉兄弟の功績がかなり大きいと思う。
彼らがYoutubeでこうした等身大の姿を発信し、それが注目を浴びたことでほかの格闘家もこれに倣った。
今やそれぞれの格闘家の人柄や癖など「人間臭さ」までよく見えるようになった。
自分と同じような部分がほとんどだと知るようになれば、やはり親近感がわく。
一方で、格闘家という仕事が他と比べ圧倒的に厳しく、険しい道であることに変わりはない。
なぜハイリスクかつ(現状は期待値的・相対的に)ローリターンである格闘家という道を選んだのか?次の試合にどんな思いをかけているのか?
普段は自分とそこまで変わらなそうな人が、この道で生きていくと決め、試合が決まれば死をも覚悟してリングに立つという現実離れした状況。
どんな心境なのか?到底理解は及ばないが、Youtube等を通し自分の言葉で決意を語り、プロとして不安な様子やプレッシャーなど
微塵も感じさせず、そこに立ち向かう姿には胸を打つものがある。それぞれに圧倒的なドラマがある。
まさにリアルタイムで、波乱万丈な人生の様を少しだけ覗かせてもらえる。
こんなに刺激的なエンタメがあるだろうか。

2.格闘技の試合は「喧嘩」でなく「エンターテイメント」

思うに、ルールはあるものの格闘技は純粋な「強さ」で優劣を決めるため、他の競技と比較しても、負けたほうは言い訳がしにくい。
勝者と敗者は結果によってその後見える世界が180度異なる、そのヒリつくような緊張感がたまらない。
ほとんど喧嘩のような雰囲気になることだってざらだ。
だが当人同士の気持ちはさておき、それでも本当の意味で「喧嘩」ではないところが、格闘技の魅力のひとつだと感じる。

あまり興味がないと、意外とはっきり意識しない人も多いんじゃないだろうかと思うが、
現代の格闘技はルールや審判の目があり、一線を超えないよう厳格にコントロールされたものだ。
さらには観客を呼び楽しませる興行であり、運営は工夫を凝らして試合を盛り上げる。
ファイターも競技者である一方、舞台の演者としても振る舞う。
先述した通り、格闘技を知る前は格闘家を全員気のふれた狂ったやつらだと思っていた。(めちゃ失礼)
試合前のトラッシュトークは亀田兄弟がよくやっていたと記憶しているけれど、
当時はあの挑発的な振る舞いを見て、選手同士は本当に嫌いでいがみ合っていて、相手を痛めつけたいし、
試合後も変わらずバリバリ険悪なんだろうと思っていた。

実際は(個人差はあるものの)試合後は互いの健闘を称えあうし、
文字通り拳を交えた仲として、仲良くなってYouTubeでコラボしたり、練習仲間になることも少なくない。
業界のことは詳しくないが、たぶん狭い世界ではあるんだと思う。
そのへんの割り切りや、試合前後のギャップが可笑しくもあり、ほっとしたりもする。
あのリングという場所はある種の異世界であり、その内と外、試合の前と後では互いの関係性が変わる。
お笑いでいうところの「緊張と緩和」だろうか、徐々に高まり高揚する気分が試合開始で一気に頂点に達し、
終了の合図とともに緊張の糸は解け、クールダウンする。数日くらいは余韻に浸るのもいい。

あとは今まで知らなかったこととして、格闘技のゲーム的な側面がある。
試合前は相手の情報を分析し、自分の手札・武器を並べ、対策を立て、勝つための理想的な試合運びを描く。
試合が始まれば、実際に手合わせして初めて分かる情報が当然あるので、それに対応しながら駆け引きや読みあいを仕掛けていく。
この辺は事前にファイターのスタイルやプロ視点の解説、勝敗予想など調べておくことで試合の楽しみ方が大きく変わってくる点だ。

話が散らばってしまったが、つまりは格闘技がガチの喧嘩ではなく、あくまでエンタメであるがゆえに
試合の前後にさまざまな可能性が生まれ、深みが増していると思うのだ。

主題とは逸れるし、あまり考えがまとまっていないが、他にも思うことがいくつかある。
まずは上記でさんざん書いていたファイター達の「クレイジーさ」。
あとは格闘技界の功労者、「朝倉未来」の人気の理由について。

格闘技ファイターのクレイジーさについて

試合となれば大怪我や死をも覚悟し、相手を暴力によって打ち倒すという側面が格闘技にはある。
そこへ強制されるわけでもなく自ら進んで臨むには、やはり常人とは違った精神性がないと難しいと、
僕などは思ってしまうのだ。
理性の歯止めを振り払い、感覚を麻痺させなければ到底無理だと思う。
それができる人はそう多くはなく、だからこそ選手たちはファンの賞賛を受ける。

つい数十年前まで、この国も戦争が当たり前にあった時代だった。
戦場に出るとなれば当然死を覚悟する。場合によっては死ぬことをわかっていてそこに赴くこともあったろう。
そういう時代にはそれが可能な人が必要だったし、当然備えるべき能力とみなされてすらいたと思う。
格闘家の一部は昔喧嘩に明け暮れていたりと、他の職業に比べいわゆる”ヤンチャ”していた人が少なくない。
今の社会で道徳的にそれは受け入れられないが、自らの危険をいとわない特性が必要とされていた時代は確かにあったし、
人間という種の一部として、これからも消えることはないんだろう。

・・・結局何が言いたいのか不明だが、そんなことを試合に向かう選手たちを観ていて思う。

朝倉未来」の人気の理由を考える

長くなってきたのでなるべく簡潔に。
おそらくかなり多くの人と同じように、自分が格闘技にハマった最大の理由は彼の存在だ。
例にもれず、そこそこのファンだと自負している。
現状過去の格闘技史にあまり明るくはないが、いわゆるカリスマ的選手。

個人的に最大の魅力と感じるのは、大げさに言えばその高潔なまでの精神。
アウトローな雰囲気を身にまとってはいるが、よく知っていけばかなりピュアな人物であり、
裏表なく自分の意志を貫いてきた人物なのだと理解できる。
普通は会ったことも話したこともないのにそんなこと断言できることはないのだが、
朝倉未来選手については驚くほど過去からの言動が一貫していて、混じりけがない。

彼を知るとき、まずは試合での強さとダークな雰囲気のかっこよさに惹かれるだろう。
次に試合外も含めた言動のクレバーさ、意外な優しさ、礼儀正しさなど外見とのギャップが見えてくる。
さらに過去の言動などから追っていくうちに、そのピュアさに驚くんではないかと思う。
良いものは大抵そうだけど、何層かのレイヤー構造みたいに魅力が詰まっている。
当然それらを伝える発信力が前提としてある。

未来選手がたびたび口にする、格闘技を盛り上げていくのに必要な「華」のある選手。
そのあるやなしやは試合結果のようにはっきり判定できるものでもない。
なんとなく、少なくとも格闘家としての「強さ」を前提として、自分の考えを言葉で表現する力、
少々のことではブレない心の強さあたりは必須ではないかなと思う。

日記-20210424

あけましておめでとう。そう誰や彼やに挨拶してもう4か月。
今年の抱負を固める間もなく、春の陽気にうとうとしていたら年度も切り替わってしまった。
何ならまたひとつ歳を取ってしまった。
仕事柄1~3月は忙しいのだからと言い訳したい。
あとは花粉症のせい。あれのせいで春先は体調悪いし家に引きこもりがちなんですって。

さてと。。。特に書きたいことがあるわけではない。
あとで読み返す楽しみのため、ほどよく力の抜けた日記で今を切り取れればいい。
ここ数年はなんだかんだと趣味が楽しくて時間を注ぎ込んでいたけれど、ここにきて落ち着いてきた。
生きる楽しみを増やすというか、自分の中に資産を残すつもりで(興味のある範囲で)いろいろと首を突っ込んだりしている。
いつも何かに夢中になっていられたら幸せだ。
韓流ドラマって食わず嫌いしてたけどあれめっちゃ面白いね。

エヴァついに終わったなー
ついになんて新劇場版の破で初めて触れた自分が言えたものではないのだろうが、
さまざまな感想や熱っぽく語る姿を目にするに、多くの人の人生の一部あるいはほとんどとなったりしていたのだろう。
個人的には序破のキャッチ―さでハマり、喜び勇んで観に行った当時の新作Qがあの内容でなかなかに衝撃だったこと、
さらにはそのあと9年も新作を待つことになったことで、ある種の憑き物が落ちたような感覚は共有できているんじゃないかと思う。
NHKのプロフェッショナル庵野監督スペシャル面白かったなー。エヴァってより庵野監督その人にとても興味がわいた。
とりあえずシン・ウルトラマン、絶対観に行くぞと誓った。

閑話休題
最近はぼちぼち結婚とか意識するようになってきた。
一応今は相手もいるわけで、その気になれば今年中にも実現可能だろう。
周りの同性の友達とか見てても、パターンは大きく二つだ。
25,6で割と早めに結婚しちゃうか、30近くなっても大して焦らず独身を楽しんでいるか。
自分は後者よりで、できればもう少しだらだらと自由を謳歌したい。
というか結婚するのは別にいつでもいい。子供を持つとなると話はだいぶ変わってくると思う。
子供はやばい。親になったら人間を育てなきゃいけない。
できたらできたでめちゃくちゃ可愛いのはわかっている。

2021年、新しいことを始めるってよりは、身辺整理もかねて不要なものを手放していく年にしたい。
新しい空気を吸いたいならば、大きく息を吐けばよい。
コロナに負けず、今年も自分らしく人生を楽しみたい。

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