自己分析とタマネギ

就活では「自己分析は注意してほどほどにしないと、深みに嵌る」ってのをよく聞く(読む)。
まぁそうだろうなと思う。自分探しって、やってるうちはちょっと楽しかったりするだけに、どんどん考えていくうちに途中で何が何やら分からなくなるって状況も想像に難くない。もともと自分のことをよく把握してる、現状把握を常にしてるって人は、自己分析なんていらないんだろう。たぶん嵌ってしまう人というのは、「自己分析」に就活で初めて手を付けた人なんだと思う。


自分を知るのってすごく大事なことだ。人生って、毎日って、選択の連続だと思うんだけど、その選択の正しさとか、自分にとってのフィット感だとか、そういうのは自分がどういう人間なのか知ってなきゃなかなか上手くいかない。僕がつい最近まで犯してきた間違いは、そういう選択の正しさを、「自分にとって」ではなく「絶対的な」「一般的な」もので測ろうとした点にある。世間にとって、あるいは他人にとっての正しさは、自分にとっての正しさとイコールではないし、「絶対に大丈夫」な答えなんてない。あるのは、自分にとってのフィット感とか、肌に合うかとか、そういうものだ。

自分で選択すること――生きる上での主導権を握ろうとしないまま生きていると、どこに自分があるのかわからなくなる。いざ考え出した時、あまりの「自分」のなさに焦ったりする。

一方で、そういう「自分らしさ」の枠にとらわれ過ぎると、「人は変わらない」論者になってしまう。これまでの自分が自分の全てなら、これからの自分にはもう変化は訪れないってことになるけど、それはそれで嫌だし、希望のない考え方だ。

だから、今の考えはこうだ。人はそれまでの過去を越えて変わっていける。ただし、変わっていくには「それまで」の自分と、「今」の自分の現在地を知らなければいけない。目標とする場所があって、そこへ向かって変わっていくのはいい。しかし、そこへ向かうにしても、今自分がどの位置にいるのか分からなければ、北へ行くべきか南へ行くべきかってこともわからない。ただやみくもに変わろうとしても、それはすこぶる非効率なものとなるだろう。必要なのは、今自分に何があって、何が足りないのか、その確認作業をすることだ。

「自分が無い・わからない」人はたぶん、変化することもできない。あるいは変化できても、「自分がある」と感じることはできないと思う。自分がどこにいるのかわからないのだから、迂闊に動くことさえ怖くてできない。真っ暗闇で手を前に突出し、うろうろと適当にさまようだけだ。「自分がわかる」状態とはつまり、地図で自分のいる場所が把握できている状態だ。それなら、次はあっちへ行こう、こっちへ行ってみようと変化するもの容易いし、足取りも確かだろう
「自分が無い」と感じることについて - Ust's Diary


今日、ふと、自己分析って、タマネギの皮むきみたいだなぁと思った。タマネギを食べようとして、一枚二枚と皮をむいでいくうちに、もっとむがなきゃ、まだむがなきゃ、もう少しむぐべきなんじゃないかという風に、どんどん深みに嵌って、ついには何もなくなる。そこにタマネギの「本体」なんてなくて、今までむいできたその皮こそが自分だった、というオチ。

タマネギのなんたるかは、その皮を際限なく剥いでいくことじゃなく、他の野菜と比較することではっきりする。トマトやニンジンと見比べ食べ比べてみたり。あるいは、どんな料理に合うか試してみることで、はじめてタマネギの特徴、良さも悪さも、認識できる。


個人的には、タマネギはやっぱりカレーとか焼肉とか「濃い味」との組み合わせて食べたときが一番美味い。


何になりたいかわからないけど就活を始めるあなたへ まず自己分析をやめるとうまくいく

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