映画『2つ目の窓』を観て

『2つ目の窓』を観てきました。
いいもの観たなぁ、としみじみ思える映画でした。


映画『2つ目の窓』予告編 - YouTube


映画の一番最初、いきなり映し出されたのは白髪の老人が山羊の首をナイフで切り、食用にするため、殺めようとするシーン。うわーこういうの苦手、早く終わらないかな。。。と思って観ていたんだけど、とても長かった。白い首に刃が突きたてられ、血が流れ出す。切り口が広がる。血がボトボトと溢れてくる。山羊は力なく声を上げる。ナイフがさらに肉を裂く、また血が溢れだす・・・

そんな思わず目を背けたくなる場面だけど、全く“誤魔化し”とか“ぼかし”がない。真正面から人や生命の生き死にに向き合うと宣言するかのようだ。


映画中もずっと、観客に媚びたところが全くない。月9のドラマのようにテンポよく会話することもなし、主人公もボソボソ喋るし、やたら間があるしで、最初は助長に感じたり苛々してしまう部分もある。でも徐々に徐々に、奄美大島とその島民のあいだにある独特の“時間の流れ”に馴染んでくる。


ヒロイン・杏子の母は島のユタ神様(たぶん司教とか牧師さんみたいな立場)だが、病気を抱え、死期を迎えつつあった。

それを傍でただ見ていることしかできない杏子は、界人(もうひとりの主人公)に素朴な疑問を投げかける。

「人ってどうして、生まれたり、死んだりするんだろう」

界人は少し逡巡した後、力なく答える。

「わかんないよ」

やがて死にゆく母は、杏子に「死ぬのは怖くないよ。自分が死んでも、杏子や、そのまた子供へと、命は続いていくから」と言う。
ユタの親神様は「たとえ死んでも、人のぬくもりは心に残るのだから、大丈夫」と言う。

本当にそうだろうか。ひとつの命が消えてもまた次が続いていくからということが、果たして人の死に対する慰めになるんだろうか。そんなのただの綺麗ごと、もっともらしい言葉で悲しみを上塗りしているだけではないのか。

杏子は納得できない。そんな心のぬくもりなんかじゃ「足りないよ」とつぶやく。


タイトルの「二つ目の窓」って結局何なのか。おそらくだけど、一つ目はこうして今生きている「生」で、二つ目が「死」なんでしょう。一枚目の窓を開け生まれてきて、やがて二枚目の窓を開け死んでいく。生と死は窓の「内」と「外」。こちらから「向こう」は覗けるし、「向こう」からもたぶんこちらを覗ける。一枚のガラス板のようなその境は些細なもののようでいて、大きく、しかし小さい。


島の人々、とりわけ老人たちは生と死をすぐ隣にあるものとして受け入れているけれど、若い主人公達はそれが出来ず悩み、葛藤する。死が生の対極ではなく延長線上にあるとしたら、なぜそこにわざわざ「生」と「死」という境があるのだろう。僕自身観終った後も答えが出なかったし、これからも出るのかどうかわからない。


映画『2つ目の窓』公式サイト
『2つ目の窓』のレビュー | Buzzes(バジズ)


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