4年間「テレビのない生活」をして思ったこと

一人暮らしを始めてもうすぐ4年経つけれど、結局テレビを買うことなく終わりそうだ。

情報を薄く広くとる、ということ

断片的な情報ならば、ネットくらいしか情報源がなくても入ってくる。
ただし自ら興味を持って積極的に情報を取りに行く気がないと、かなりぼんやりとしか分からない。分からない部分は勝手に自分で「たぶんこういうもんだろう」と予想してみたりするけれど、大抵はずれる。

たとえば8.6秒バズーカ―が流行ってた時期は、まずネット上でちょいちょい「ラッスンゴレライ」という言葉を見かけるようになる
→「ラッスンゴレライってなんだよ」と頭の隅で疑問に思いつつ特に興味がないのでスルーする
→「ラッスンゴレライ」という言葉を認識した後はやたらとそれが目に付くようになる
→正直気になってきたけど調べたら負けな気がして放置
→やっぱり気になる
→ようつべに動画を観に行く
→結局ラッスンゴレライがなんだったのか分からない

という経緯をたどった。

テキストだけでなく映像があることで、その物事に関する記憶が定着しやすいという事実を再確認した。

もしテレビがあれば、この時期なんとなくテレビを流しているだけでも一度くらいは彼らのネタに遭遇して「こういう芸人なんだな」と理解できるだろう。ちょっとした説明とともに映像を見ていれば、おおざっぱであれど「分かった」という手応えを掴めると思う。お笑い芸人はそれが顕著だが、たとえば世間を騒がせたSTAP細胞やパリの同時多発テロのニュースにしても、情報としてはテキストで吸収したけれど、イマイチ印象が薄い。
小保方さんが動いて何か喋るのをほとんど聞いたことがないし、テロの映像も見ていないので「そういう事件があった」以上の認識にはなりづらい部分がある。

つまり

①もともと興味のない情報は断片的にしか入ってこないので印象が薄い
②結果、知りうる情報にムラができる(興味の差がはっきり出る)

ということになる。

ちなみにこれから就活をする大学生には、就活中だけでいいから、テレビか新聞どちらかを情報収集のツールとすることをおすすめしたい。
ネットに比べこれらのメディアの良いところは、自分が元々興味のない、あるいは薄い情報も他と並列して伝えてくれるということだ。企業で面接官をしているおっさんたちから最近のニュースについてふられたとき、それが興味のない事柄だったからとスルーしていたことだったりするとかなり後悔する。少しでも知っているか知っていないかは、こういうときかなり決定的な差になる。

そういう意味で、テレビほど薄く広く情報をとるのに適したメディアは他にないと感じている。

あまりの“濃さ”にびっくりする

これはバラエティ番組に顕著だが、たまにテレビを見ると、その“味付けの濃さ”に驚く。
ド派手な文字で芸人のボケやツッコミがどどんと画面に表示されたり、企画がやたら人の感情を刺激したり、喜怒哀楽を助長させるものだったり。「どうだ、面白いだろ!?」「悲しいだろ!?」「驚いたろ!?」「かっこいいだろ!?」「綺麗だろ!?」「可愛いだろ!?」・・・・

さっきネットが主な情報源だと情報そのものに対する印象が薄くなると書いたけど、これはその裏返しだろう。テキストであれば、内容はどうあれその刺激の強さにも限度がある。薄味に慣れ親しんでいて、たまに超味付けの濃い、押しつけがましいまでの情報に触れるとびっくりして耐えられなくなる。

特に目につくのは、喜怒哀楽の中でも“怒”の部分、つまり感情を逆なでするような、観ていて思わず腹が立つような企画や映像を確信犯的に流していること。「こういうのムカつくでしょ!?」「腹立つでしょ!?」ってかんじで製作側がこちらの感情を揺さぶってくるのを嫌というほど感じるのだ。それがわかっていながらも、さすがにあちらもプロなので、まんまと腹を立ててテレビの前で文句を言ってしまったりするんだけど、そんな自分に気づいてたまにぞっとする。こんなことで自分の中の何かが擦り減ってしまうのは馬鹿らしい。

今後テレビを買うことがあるかもしれないが、その点意識して、加減して見ないと怖いなと思う。

まとめ

他にも「一定期間のブランクがあることで浦島太郎の気分が味わえる」とか「テレビゲームやスポーツ観戦がしたいとき無性にテレビ買いたくなる」とか「CMってうざくね?」って話とかあるんだけれど、まぁタイトル以上のことは言えそうにないので割愛。

いろいろ考えた結果、テレビはあってもいいしなくてもいい、という結論に達した。どちらでもいいということは、何か強烈な動機が今後起きない限り買うことはないだろう。実際なくてもさほど不満はなかったのだし。

理想的なのは、自分の家にはないけれど、観ようと思えばいつでも観れる状態か。そんな都合のいい女みたいな新しいテレビ鑑賞の形が実現すればいいなと思う。

テレビの大罪(新潮新書)

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映画『傷物語』鉄血編 感想

<物語>シリーズ『傷物語』の劇場版その1、鉄血編を観てきました。

www.kizumonogatari-movie.com

傷物語』は<物語>シリーズの“エピソード0”にあたる、阿良々木暦と吸血鬼・キスショットの出会いを描いた物語。主人公暦が怪異と呼ばれる妖怪がおこす事件や出来事に巻き込まれるようになっていく、全てのきっかけとなる話だ。


全体的な感想でいえば「やや物足りない」というかんじ。

TVシリーズ同様、話の基本が会話劇なのはいいとして、まさかバンパイアハンターとのバトルには全く及ばず終わるとは思わなかったから。シリーズ通しても『傷物語』はかなり好きな方なんだけど、それはたぶん、ストーリーの軸にはっきりした目的意識があり、戦闘シーンがたくさんあるからだ。主人公とヒロインの会話が静かに長々と続くことが多いこの作品群では珍しいくらい、エンターテイメントしてる。

にもかかわらず、今作では目立った戦闘シーンはゼロ。正直がっくりきた。

けどそのぶん、TVシリーズとの違いをじっくり鑑賞出来て、新鮮な感覚は持続できたようにも思う。絵のタッチからCGの多用、そして音楽。TVアニメよりさらにアーティスティックな雰囲気が増していたような気がする。特に音楽はずっとポップで、それも今風のスマートなポップさではなく、若干古いかんじのそれだった。ちょっとルパン三世っぽいなと思ったのは僕だけじゃないはず。

それにしても、あの原作小説をアニメ化するのに、ああいう演出手法を使ったのはほんとに上手いなぁと改めて思う。
うまく言えないけど、非現実的な世界観を非現実的な手法で表現することで、逆にリアリティを感じさせているような、そんな演出。あの無機質な絵柄が好きじゃないって人がいるのも知ってるけれど、僕はけっこう好き。

絵柄といえば、作画はすごい見ごたえだった。羽川さんのスカートを取っ払う突風が吹くところは勢いが尋常じゃなくて笑えるし(ふわーお❤みたいな効果音も狙いすぎだけど面白い)、暦がキスショットに遭遇するシーンはめちゃ怖い。今作のストーリー的な見どころといえばその二つしかないと言っていいと思うけれど、その点かなり満足度は高いかも。

映画の感想はこれくらいにして、<物語>シリーズ全体を通しての僕の印象を。


最初はよくあるハーレムものかなと思って観はじめた。ある意味、その予想は当たっていたが、違う部分も多かった。

僕はあんまりハーレムもののアニメやラノベが好きじゃない。現実味を感じられなくて、物語に没入できないというか。

もちろんヒロインたちがなぜか主人公を好きになってアプローチされまくるっていうご都合主義的な展開もそうなんだけど、どちらかというと、男がほぼ主人公のみで、他はみんな可愛く素直な女の子ばっかりという人物配置そのものが気に入らないんだと思う。自分を攻撃したり嫌ったり、そこまでいかずとも、よく思わなかったり上手く関係を築けなかったりする、自分とは異質な「他者」の存在が見えないから。

自分に都合が良くて、心地よくて、気持ちのいい人だけで構成される閉じた世界。そんなのありえないじゃん、と。
そりゃ、小説なんて空想の世界なんだから読んだり観たりしている間はそこに没頭すればいいじゃないって考えもわかるんだけど、でも現実の世界って理不尽なことの方が多いじゃないですか。僕はおそらく、小説やアニメを観る中であっても、できれば、そういう現実と向き合うヒントが欲しいと思って鑑賞している。現実≒理不尽≒他者だから、「他者」のいない創作物はみていて退屈だしハマれない。


つまり何が言いたいか。<物語>シリーズは一見ハーレムものだけど、実は「他者」がちゃんといる、ということ。
その「他者」とは主に、物語内で数々の事件を起こす「怪異」と呼ばれる妖怪たち。


中学校の卒業式で校長先生が「社会に出たら厳しいこと大変なことがたくさんある。それに立ち向かう力をつけよう」とか何とか、言ってた覚えがあるんですよね。高校でも言われたような気がする。でも、「大変なこと」の具体的な内容を教えてくれる大人はほとんどいなかった。

僕は小心者なんで、「大変なことってなんだよ」「社会ってそんな厳しいのかよ」と思いながら、けっこう恐怖を煽られてた。得体の知れない、何か大変なことを連れてやってくる「社会」。実体のない妖怪みたいなものですよね。ここでいう「社会」は、つまり「他者」のことだったのかなぁと、今にして思う。

怪異ってのはよくわからなくて、確かに存在するが、存在しないとも言える。人の思い込みや想像が生み出したものもある。
そいつらは僕らの世界に、よくわからない「他者」として様々な影響を与える。理不尽だし、なかなか思い通りになってはくれない。

僕にとっては、「他者」としての怪異とそれに向き合う主人公達の物語、という定義が、このシリーズを観る上でしっくりくる。だから一見ハーレムっぽいのに楽しく観られるのかなぁと思うんですよね。

傷物語 涜葬版

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【ネタバレなし】映画レビュー:『スターウォーズ フォースの覚醒』

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スターウォーズEPⅦ』観てきました。
結論から言って、かなり良い出来なんじゃないでしょうか。
新シリーズ、期待していいと思う。

というわけで感想書いてみます。ネタバレはなし。

とりあえず第一印象は

「手堅く作ったなー」です。

オリジナル3部作へのリスペクトに溢れていて、特にファンでなくても、ひと通り観ていればまず誰の目にも明らかだと思う。そのくらいふんだんに惜しみなく旧シリーズオマージュを取り入れてる。個人的にはちょっとくどいくらいに感じた。

勘違いかもしれないけど、J・J・エイブラムスって過去作品のオマージュとか好きな印象あるんですよね。『スーパーエイト』をこの前観て、『E.T.』っぽいなーと思ったばかりというのもあるかも。

これだけのカルト映画だし、熱心なファンへ向けた牽制ってのもあるんでしょう。
今作から完全に誰も先の展開を見通せない新章に突入する上、ルーカス監督の手を離れてディズニーの手に渡った。つまんない映画作ったら磔にされて干されそうな、凄まじいプレッシャーのかかる作品。

だからこその「ちゃんと旧作リスペクトしてますよ」アピール。
だいたいEP7を観に来ようなんて考えるのは少なくともEP1から6まできっちり観てる人がほとんどなわけで、そう考えるとたしかに、旧作ファンの方を向いて作品作るのは間違ってない――というか、新章の一発目としてはこれで正しいと思う。

もちろんこれは作り手の都合が大きくて、一応全シリーズ観てはいるもののEP4~6にリアルタイムで観ていた人ほどの思い入れはない僕からすると、今回のストーリーはやや退屈だったんですけどね。

とはいえ

新シリーズを自分たちの手で作っていくんだ、という気概も、確かに感じました。

特にラストの方、誰もが息を飲むであろう衝撃のシーンがあるんですが。
なんとなくその展開を予想できてしまうのが少し残念で「やっぱりな」と思う一方、正直「あ、ほんとにそれやっちゃうんだ?」って思った。

「旧作へのリスペクトに溢れてる」って書いたけど、そんな作り手だからこそ、かなり勇気のいる部分だったに違いない。でもおそらく、避けては通れない道と判断したんでしょう。これから新たな三部作を生み出していくにあたり旧作とは決別しなければならない。いつまでも旧作ファンの方ばかり向いていられない。だからこそあえて、涙をのんで突き放した。

「これは俺たちの作品なんだ!」という作り手の叫びが聞こえてくるようでした。

しかし一方で、シリーズを貫くテーマは普遍であるとも言っている。
つまりスターウォーズは「父と子」の物語であるという、作品の根本にある哲学みたいなものはちゃんと受け継いでいく。

そんな軸足のぶれない姿勢もびしばし感じました。

次作からはどんどん新しい展開、あっと驚かせるストーリーを仕込んでくるはず。
めちゃめちゃ楽しみ。


あと忘れてはいけないのが、映画の映像そのもの。これは流石に凄かったです。3D・IMAXで観に行ったかいがあった。
とりあえず大迫力の空中戦が観られればよしと思ってたくらいで――というかそれを観に行ったようなもんだけど、その点は大満足。今までになくたっぷり空中・宇宙での戦闘シーンで魅せていた気がします。ミレニアム・ファルコンに光が灯って動き出すところなんかは、たぶん今作一といっていいくらいに胸躍るシーン。

これでライトセーバーのバトルも良ければ完璧なんだけど、こっちはやや消化不良かも。
ストーリー上仕方ないのかなとも思いつつ。


色々言いましたが結論、個人的にはかなり面白かったです。
こうしてリアルタイムでシリーズを追いかけるのは初めてなんで、生きる目的が増えたなというかんじ。おすすめです。

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