『フード理論』で映画は100倍美味しくなる

最近読んだ中では断トツで面白かった。

フード(食べもの)に着目すれば、観たり読んだりがずっと楽しくなる、味わえる。映画とは書いたけど、アニメでも漫画でも小説でも、およそ物語と名のつく創作物なら何にでも応用可能だ。

著者によると、物語における食べ物は演出上、感情の機微を伝えるための優秀な装置として機能し、キャラクターの特性をひと目で表すためのアイコン的役割を果たす。逆に言えば、物語に上手く食べ物を配置すれば、登場人物の性格や感情、置かれた状況を鑑賞者にスムーズに伝達させるのにきわめて有効に作用するのだ。

そうした現象の総称が『フード理論』である。

そしてフード理論には三つの原則がある。

1.善人は、フードをおいしそうに食べる
2.正体不明者は、フードを食べない
3.悪人は、フードを粗末に扱う

誰かが大きな口を開けておいしそうに食べ物を咀嚼してごくんと飲みこめば、鑑賞者は親近感を持ち、信頼を寄せる。なぜならその人物が「腹の底を見せた」と認識するからだ。腹の底を見せられる=隠しごとや後ろめたいことはないということ。よって、その人物は善人だ。フードをおいしく食べることが、その人が良い人であることを示すシグナルとなる。

同様の理由で他も説明できる。

もしその人物が、みんなが食事する場面でひとりだけ何も食べなければ、鑑賞者は怪しんで訝しく感じる。その人の腹の底が見えないからだ。例外はドラキュラやゾンビといった常人には理解不能な物質を喰らう者だが、原則として、正体不明者はフードを口にしない。

また食べ物を粗末に扱う者を、鑑賞者は悪人と認識する。誰かがおいしそうに焼いた目玉焼きに吸いさしの煙草をじゅっと突っ込んだとしたら、確実に善人には見えないだろう。

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北川恵海『ちょっと今から仕事やめてくる』 感想文

行きつけの本屋さんをぶらぶらしていたら、ちょっと目立つ場所に可愛らしい手書きPOPで「おすすめです!」って書かれてて、そうかおすすめされちゃったら読まにゃあならんな、ということで買ってみた本書。

シリアスな笑いを目指した、高度なホラーコメディと考えれば面白いかもしれない。そんな小説。

この本のテーマであろう事柄をざっと並べてみる。ブラック企業、生き方・働き方、若者、過労死、自殺・・・・

小説としてこうした問題にどんな結論を出すのかがひとつの見どころだけど、結局どこかで聞きかじった言説を薄めに薄めたようなものしか見当たらない。特にラストあたりで、主人公の隆が部長に啖呵を切るシーンはちょっとひどい。あたかも感動的なシーンのように描かれてるけど何も解決してないでしょ。

本の煽り文にあった「スカッとできる」部分というのはここなんだろうけど、むしろかなりもやもやした。
主人公に対しパワハラに加えデータの不正改ざんなんていう旭○成建設もびっくりの犯罪をやらかしたひどい先輩社員がいるんですが、その先輩も最後に出てきて

立ち止まったオレに、先輩は言った。
「・・・・・頑張れよ」
俺は、前を向いたまま、笑顔で言った。
「はい!ありがとうございます!」

ってやりとりしてて「ええええええええええ!?」ってなった。「頑張れよ」じゃねえよどの口が言ってんだ。隆も隆で、笑顔で「ありがとうございます!」ってなんなの?「出るとこ出ようぜオラァ!」だろそこは。

まぁでも、この場面、主人公がやっとこの会社をやめてやろうと決意して、辞表を出した直後なんでね。開放感に溢れて「もうなんでもいいや!」って気持ちになってるのも理解できなくはない。裁判とか労基とか面倒だし。うん。

けど次の一文でさらにびっくりする。

いつかまた、会えることを願って。

うえええええええええええええええええええええええええ!?
いや待って、会いたいの?いつかまた会いたいの?会ってどうすんの?それノリと勢いだけで言ってない?雰囲気に流されてない?よく考えて!
どう考えても二度と会いたくないだろ!

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もう「この主人公は、こういう人間である」と理解するしかないのか?
先が思いやられる。

この物語のキーパーソンに「ヤマモト」という男がいる。
駅で飛び込み自殺に及ぼうとしていた隆をすんでのところで止めに入った、主人公の幼馴染を名乗る青年。

ヤマモトは隆の自殺未遂以降、なにかと連絡を入れては一緒に飯に行ったり出かけたりしてくれる。
隆自身はヤマモトに関する記憶はないのだが、仕事で追い詰められ弱っていたとき、そうしてややおせっかい気味に気にかけてくれる友達ができ、生きる活力を取り戻していく。

そして隆はまたもや、ヤマモトに命を救われる。二度目の自殺に及ぼうとしていたところを阻止されるのだ。
隆は自殺する理由も軽ければ、自殺をやめる理由も軽い。


はっきり言って、隆はいわゆる「メンヘラ」というやつではないか。

最終的にヤマモトは、実は幼馴染でもなんでもなく赤の他人だとわかる。そして最後、隆が会社をきっぱりやめるという決断を下したあと、姿をくらます。

なんで姿を消す必要があるんだろう、と最初は思った。はじめは知らない者同士だったとはいえ既に友達と言っていい関係だろうし、わざわざ電話番号を変えてまで会わない、あるいは会えないようにする理由があるんだろうか。

しかしそんな疑問も、隆が実は重度のメンヘラというのであれば説明がつく。

ヤマモトはなりゆき上仕方なく、隆の事情に首を突っ込んでしまった。いったんそうしたからには最後まで付き合う、責任を持つという態度のあらわれがあのおせっかい焼きなのだとすれば、こちらは隆とは対照的な芯の通った男だといえる。しかしその相手が、長く付き合うには重い、しんどい、そんなやつだったとしたら。しかも職業上、「そういう人たち」を見抜くスキルを持っていたら。たぶん、キリのいいところでさよならして、縁を切るだろう。もともと赤の他人なのだ。

だがそれだけにラストはホラーでしかない。
ヤマモトが働いている職場に、なんと隆が転職してくる。感動の(笑)再会シーンで隆は

「先生、俺にも救いたい人がいるんだよ。俺は、その人に命を救ってもらったから、今度は俺が、その人を苦しみから救いたい。」
声の出ない僕を、白衣姿の彼は優しい瞳で見つめていた。

ヤマモトはこれまで一言も「苦しんでいる」なんて言っていないし、実際苦しんでない。なのに一方的に「救いたい」と言って自分の職場にまで職を変え押しかけてくるとは何事か。
偶然にしては出来過ぎているので、おそらく、姿を消したヤマモトをどうにかして見つけだし、職場を突き止めたのだ。おそろしい執念!怖すぎる。もはやストーカーではないか。「声の出ない僕」の絶望感が伝わってくる・・・


そんな小説でした。おすすめです!

夫婦別姓とはまた別の話

小学生のころ、二ノ宮くんという友達がいた。

仲は良くも悪くもない。6年間同じ教室で過ごし、一緒に遊んだりした記憶もあるにはあるけれど、これといって印象的なエピソードは思いつかない。お互いおおむね、なんでもないクラスメイトの一人という認識だったと思う。

彼はけっこう人気者で、仲のいい友達からはあだ名で呼ばれたりもしていたようだけど、僕は普通に「二ノ宮」と苗字で呼んでいた。

中学校に上がる前、二ノ宮くんの苗字が変わった。両親が離婚したとかで、父親の方から母親の旧姓へと変わったらしい。
事情を直接聞けるほど近い距離感でもなかったし、卒業間近だったのでそのへんの記憶は正直曖昧だけど、とりあえず「あいつ苗字変わったらしい」ということだけ聞いていた。

その後、僕らは同じ中学へ入学した。
入った部活も同じだったが、中学に上がったからといって距離感は変わるでもなく。

当然ながら、中学から一緒になった人は二ノ宮くんを、変わった方の苗字で呼ぶ。先生も友達も。
小学校から特に仲のいいやつらはあだ名で呼ぶ。

そして僕は相変わらず「二ノ宮」と呼んでいた。

たまに部活前にみんなで駄弁ったりしているとき、僕が「二ノ宮」と呼ぶような場面が何度かあった。中学からのやつは一瞬「?」という顔をして、一寸間をおいて「ああ、あいつね」となる。二ノ宮くんは特に変わった様子もなく「何?」ってかんじでこっちを見る。

なんとなく、もしかして、二ノ宮って呼ぶのあんまりよくねえのかな?と思った。
これもまた記憶が曖昧だが、話の流れの中で、ちらっとそのことを本人に聞いたことがある。
二ノ宮くんからは「別にいいよ、今まで通りで」という答えだったと思う。

なにしろ6年間「二ノ宮」と呼んでいるので、今さら変わった方の苗字で呼ぶのも不自然だ。
たぶんあれでよかったのだとは思う。

おおざっぱでいつも明るいタイプだったし、そもそも僕が彼をどう呼ぶかなんて、全く気にしてなかったろう。

ただ当時はなんとなく、彼を旧姓で呼ぶたびにちくっと胸が痛むというか、ほんとはどう思ってんだろうなーとは思っていた。
本人はああいってるが、もしかしたら今さら「二ノ宮」と呼ばれたくなかったかもしれないな、と。


夫婦別姓の話題を目にする度に、そんなことを思い出している。

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