本気で苦しんでいる当事者に対して他人がしてあげられることなんて何があるのだろう

先日、ちょっと失敗したなーと思うことがあった。
そいつ(以下Aと呼ぶ)は少し前からある目標に向けて頑張ってて、でも思った通りにはいかずけっこう苦労していた。やってることはA自身の問題だったしどうしたって力になれないのはわかってたけど、僕は何かしら言葉を掛けるべきなんじゃないかと思った。でも結果的にそれは上手くいかなかった。ちょっと冗談めかして言葉を掛けたんだけど、向こうは僕が思ってる以上に余裕がなかったんだと思う。後になって、これなら何も言わない方がましだったと後悔した。

そいつとは付き合いも長くて、もう10年以上なんだかんだ仲の続いている間柄だ。いつも一緒なんてことはなかったが、人生の半分以上はAのことを知っていて、かなり理解しているつもりでいた。しかし実際蓋を開けて見ると、全くそんなことはなかった。「あいつならこんな感じに言っても、真意は伝わるだろう」という驕り、相手の立場に対する想像力の欠如、過ごした年月への盲信と甘え。


とまぁさも大ごとのように書いたけど、実はそれほど深刻ってわけでもない。後になって笑い話にできる程度のミスだとは思う。


誰かに対する「励まし」とか「慰め」とか、どこからが自分のエゴで、どこからが相手にとって望ましい言葉なのか。

苦労している相手を見て何か言ってやりたいと思うのはエゴだ。相手が何か言って欲しい、励まして欲しいと言っているわけでなければ、単なるおせっかいでしかない。もっと深いところでは、他人の苦労や不安を安全圏から冷やかしたい、野次馬根性みたいなものがある気がする。でも同時に、上手くいってほしいなと思う気持ちも本当だ。自分の動機としては後者を前に出しながら、どこかに前者のようなヤラシイ気持ちがあるから、相反する感情の間で罪悪感を感じてしまうんだろう。


実際のところ、僕があのとき「適切な」言葉を掛けることができたとして、それに何か意味があったんだろうか。Aは別に、僕に何か意見を訊いたり励ましを求めてきたわけではない。僕が近況を聞くついでに言っただけだ。その時点でもう「詰み」ではないか。


ただ苦しい状況にいるとき、誰かの言葉が欲しいと思うことはある。ただぶちまけたい時もある。でもそれを「そうしたい」と言えるかどうかは別だ。本人が何も言わないから何も言わなくていいというのは確かに相手に対する尊重とも取れるけど、ある意味では余計な責任、何かあったときにそれを引き受けるという覚悟からの逃げでもある。「伝えること」のリスクを恐れ口をつぐめば波風立てることはないが、同時にそれは何も起き得ないということでもある。自分の発した言葉は相手を崖から突き落としかねないが、もしかしたら良い方向へそっと背中を押すかもしれない。


「自分の言動によって、誰かに影響を与えたい」「影響力を持ちたい」という欲求はごくごく自然なものだと思う。ただ時にはそれを抑え何も言わない方がいい時もあるし、何か「伝える」と決めたのであれば、それがあるいは自分のエゴでしかないことを含め、結果的に針がどちらに触れるかというせめぎ合いだ。結局のところ本気で苦しんでいる「当事者」に対して他人がしてあげられることなんて何があるのだろう。思った以上に自分は無力で、何もできない。

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