紙の手紙が「ノスタルジー」になる時代

最近めっきり“手書きで文字を書くこと”が減ったなぁと感じます。大学の講義中や課題をやるときはもちろん、多少使うのだけど、それでも中学・高校と比べてシャーペンの使用頻度はがくっと落ちた。今でこそ大学に入ってしばらく経つから慣れてはきたけど、入学当初はそのギャップに少し動揺した覚えがある。課題はほとんどワードやパワーポイントで作るから、自分で意識して使う機会を作らない限り授業中のレジュメへの書き込みと一部の課題くらいにしか筆記用具を使わないのです。


それを顕著に示してるのが、僕が使っている消しゴムです。未だに受験生の時使っていたものが3分の2くらい残っている。入学してもうすぐ3年が経とうとしているのに、です。僕がただ勉強さぼってるってだけ?


毎年お正月には年賀状を送る方も多いんじゃないかと思います。でもその多くはプリンターで大量印刷したものでしょう。同じものをたくさん用意して、何か書くにしても一言添える程度ではないでしょうか。全部手書きで書いてます、なんて人がいたら素直に尊敬しちゃいます。

ちなみに僕が今年出した年賀状はたったの2枚。小学校の野球チームのコーチと、中学で一緒だった友人です。しかも「なぜこの二人なのか」と聞かれたら、失礼を承知で言えば「毎年送られてくるから」としか言えない。もちろん貰うのは嬉しいんですが、僕の中にはもう「年賀状を出す」という習わしは無いと言っていいのです。今や新年の挨拶さえメールで済ましてしまう。少し年配の方からすればかなりのジェネレーションギャップなんじゃないでしょうか。


ある程度の枚数の年賀状をやりとりしていた記憶があるのは、小学六年生まで。中学に入って一旦友人関係がリセットされたからだと思います。その後もやりとりする友人はいたんですが、いつからか互いに送ることもなくなりました。そういえば僕らの年代ってちょうど、個人情報保護がどうのこうのと言われ始めた世代だと思います。それも関係してるのかもしれない。

こんなふうに、「年賀状を送る」という慣例がなくなりつつある世代はどの年代からなんでしょうか。今の30代くらいの方はまだ出す人が多いのかな。


今後は僕のような人が、世代が、今後どんどん年を取っていって、年賀状を出す慣例もなくなっていくんでしょう。若者の中にこういった習わしがほとんどないと思われる以上、そういう時代は遅かれ早かれやってくる。

堀江貴文さんの「人生論」と言う本に、紙の手紙について書かれた章があります。堀江さんによると、紙の手紙はもはや「伝統文化」だと述べています。

「人生論」 (ロング新書)

「人生論」 (ロング新書)

今はもうパソコンがあるのだから、字が書けなくてもいいのではないかとすら思う。各自が多少汚くても、自分の名前さえサインできればいい。(中略)なぜ、紙の手紙が存在するのかと言うと、おそらく伝統文化であり、ノスタルジーだからだろう。だったら、もう伝統文化であってノスタルジーなのだと割り切ってしまえばいい。

言われてみれば確かに、真面目に紙の手紙を書いた記憶なんてほとんどない。ずいぶん昔に中学校の国語の授業で手紙の書き方(「拝啓」からはじまって季節の言葉を述べる、とか)を習った気はする。でもそれを実践してみたのは覚えている限り一回のみだ。そう考えると確かに「伝統文化」や「ノスタルジー」なんでしょうね。


年賀状もそうですが、もはや紙の手紙が伝統文化となるのは時間の問題。あるいはもうなっているのかもしれません。パソコンやケータイのメールは確かに便利だし、効率的な上にコストもほとんどかからない。紙のようにかさばらないから、大量にデータとして保存しておける。他の例を挙げれば「日記」にしたって、僕なんかはこうしてネット上にブログサービスを使って書いています。本音から言って日記を「手書きで」というのは“めんどくさい”し、こうして数か月間続いているのも、パソコンでキーボードを打っている方が手軽だからと言うのが大きい。

こういった時代に「紙の手紙」は、もっといえば「手書きで文字を書くこと」のあり方はどう変わっていくんでしょうか。


堀江さんは「人生論」で、「紙の手紙は温かみがある」という論にも疑問を示しています。

「人生論」 (ロング新書)

「人生論」 (ロング新書)

よく「紙の手紙は温かみがある」と言うが、それは違うと思う。温かみと言うのは、物理的なものから得られるものではなく、相手の文章の中に込められている気持ちを汲み取ることが大事なのであって、それは手書きだろうがパソコンの文字だろうが変わらないはずだ。

手紙の温かさとは物理的なものではなく、文章に込められている相手の「気持ち」から来るものである。確かに一理あります。

ただ僕はこの点に関しては堀江さんとは反対の意見です。手紙の温かさには「物理的なもの」も確実に含まれると思うのです。


紙の質感やボールペンのインクの匂いに加えて、相手の筆跡とか、字の乱れ具合なんかで相手の心境みたいなものも読み取れるのが紙の手紙のよさだと思う。手汗でちょっと滲んでいたりとか、何か絵が描いてあったりするとなお良い。そういったものには電子メールで伝わらない、紙の手紙でしか伝わらない相手の「気持ち」や「心境の機敏」があると思う。何かを表現して伝えるためのツールとして、“遊び”がある。文章からからくる「温かさ」はもちろんそうなんだけれど、それだけではない。気持ちを伝えるツールとして、電子メールは紙に数段劣ると思うのです。

僕は昔、習い事のお習字を10年位やっていました。たぶん他の多くの人より「手書き」に関しては経験があるでしょう。それなりに思い入れもあるし、筆はもちろん鉛筆やシャーペン等で字を書くのは結構好きです。


先ほど述べた、中学の授業で習った手紙の書き方。何を思ったか実際にやってみようと思って、一度祖父に手紙を出したことがあります。僕としてはなんてことない、気まぐれでやったことだったんですが、こっちがびっくりするくらい喜ばれました(ついでに書き方の不備を添削された)。そうやって手紙を出したのもそれが最初で最後だけれど、今でも記憶に焼き付いている。


紙の手紙がノスタルジーになる時代は、確実にくるんでしょう。そうなれば、それを「伝統文化」かそれに近いものとして残していくことになるのかもしれない。これからも「手紙」はメールが主なんだろうし、ちょっと寂しい。この寂しさがまさにノスタルジーなんだろうな。

手紙 ?拝啓 十五の君へ?

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手紙の作法

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