『フード理論』で映画は100倍美味しくなる

最近読んだ中では断トツで面白かった。

フード(食べもの)に着目すれば、観たり読んだりがずっと楽しくなる、味わえる。映画とは書いたけど、アニメでも漫画でも小説でも、およそ物語と名のつく創作物なら何にでも応用可能だ。

著者によると、物語における食べ物は演出上、感情の機微を伝えるための優秀な装置として機能し、キャラクターの特性をひと目で表すためのアイコン的役割を果たす。逆に言えば、物語に上手く食べ物を配置すれば、登場人物の性格や感情、置かれた状況を鑑賞者にスムーズに伝達させるのにきわめて有効に作用するのだ。

そうした現象の総称が『フード理論』である。

そしてフード理論には三つの原則がある。

1.善人は、フードをおいしそうに食べる
2.正体不明者は、フードを食べない
3.悪人は、フードを粗末に扱う

誰かが大きな口を開けておいしそうに食べ物を咀嚼してごくんと飲みこめば、鑑賞者は親近感を持ち、信頼を寄せる。なぜならその人物が「腹の底を見せた」と認識するからだ。腹の底を見せられる=隠しごとや後ろめたいことはないということ。よって、その人物は善人だ。フードをおいしく食べることが、その人が良い人であることを示すシグナルとなる。

同様の理由で他も説明できる。

もしその人物が、みんなが食事する場面でひとりだけ何も食べなければ、鑑賞者は怪しんで訝しく感じる。その人の腹の底が見えないからだ。例外はドラキュラやゾンビといった常人には理解不能な物質を喰らう者だが、原則として、正体不明者はフードを口にしない。

また食べ物を粗末に扱う者を、鑑賞者は悪人と認識する。誰かがおいしそうに焼いた目玉焼きに吸いさしの煙草をじゅっと突っ込んだとしたら、確実に善人には見えないだろう。


たとえば、細田守監督の『サマーウォーズ』。
この映画で印象的なのが、陣内家の大家族で食卓を囲む場面だ。10人以上の登場人物がワイワイと騒がしくフードを食べる、バトルとはまた違った意味で圧巻のシーンだ。フード理論的にはここで、彼らが互いに信頼し腹の底を見せ合える、強いきずなで結ばれた家族であるとわかる。

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そこへやってくるのは、10年間、家族のもとから姿を消していた侘助。明らかに一家から「余所者」として扱われている彼は、大おばあちゃんから食事を勧められるが、それを断る。この時点ではまだお互いに不信感を持ったままの関係だ。
しかし侘助の開発したAIによって世界が危機に陥り、大おばあちゃんの医療機器はその影響で心臓の異常を感知できず、手遅れとなる。これをきっかけに心を改めた侘助と陣内家はともにAIを倒そうと決意するが、そこでまず行われるのが、家族そろっての食事だ。ここはフード理論でいう「仲間になった」という印だ。ここでやっと侘助は家族に腹の底を見せ、一致団結して人工知能ラブマシーンを打倒する。

一緒に食事をしない⇒仲間ではない
一緒に食事をする⇒仲間になる

というはっきりした線引きが、重要な演出としてほどこされている。
「同じ釜の飯を食う」という表現があるように、お互いに「腹の底を見せ合った」のは、偽りのない真実の心を打ち明け合ったことに他ならない。

ジブリの巨匠・宮崎駿。彼の作品の多くでは、登場人物が食べ物をおいしそうに食べる描写がひとつの見どころになっているが、それは単に、おいしそうな食べものが沢山でてくるよね、といった漠然としたレベルではない。「食べさせるべきひとには、ちゃんと食べさせ、心が通じ合わないひととは、決して一緒に食べさせない」という、確固としたフード文法を持つ稀有な作家であるという。


天空の城ラピュタ』では、パズーとシータが海賊に追われて洞窟へ逃げのびる。その中で、二人は一緒に目玉焼きをのせたトーストを食べている。

フード理論的には、少年(少女)が二人並んで食べ物を分け合えば、それは親友の証だ。

またパズーはその海賊たちと共に、ムスカ大佐に監禁されているシータを救い出す。そのあと無事、タイガーモス号に帰還し、パズーとシータは海賊らと共に食卓を囲む。

このシーンが示す鑑賞者への心理的効果、あるいは作者のメッセージは「かつては敵同士だったけれども、これで彼らは仲間になった」ということ。そのシーンの前と後では、明らかに彼らの団結は強くなり、ムスカ大佐らに対抗するため見事な連携を見せる。


また、「動物に食べ物を与えるのは善人、自分が食べるよりも先に与える人は、もはや聖人並」である。
風の谷のナウシカ』で、ナウシカ腐海の危険な地下世界に墜落し、気絶してしまう。しばらくして気を取り戻した彼女は、まず最初に、連れていたキツネリスのテトにチコの実を食べさせる。しかもチコの実はとても滋養のある貴重な保存食で、ナウシカを「姫ねえさま」としたう風の谷の子供たちからの、なけなしの餞別だ。信頼の証としてフード(チコの実)を手渡す子供、その大事なフードを自分ではなく、まず動物に分け与えるナウシカ。チコの実はつまり、親愛のアイコンだ。

テトと対照的なのが、ぺジテ市の少年・アスベル。
遠い地方出身で当然食文化も異なるアスベルだが、栄養になるならやぶさかではないという反応で、チコの実を無理矢理飲みこみ、テトは嫌がらずに食べる。フード理論的には、これで三者は仲間になったということだが、宮崎監督はここで、アスベルにとってはチコの実はあくまで「なじみのない不思議な味」であると描写する。このチコの実に対する二社の味覚の差が、以後のナウシカとの関係や距離、ひいては風の谷とべジテの因縁をも暗示する。

他にも『もののけ姫』のアシタカは作品中で何度も、ヤックルに水や食べ物を与える。もちろん、自分より先にである。また『天空の城ラピュタ』のシータとパズーは、自分たちの朝食よりも先に、ハトたちにエサを与える。

これら「人間である自分より先に動物に食事を与える」という行為が、その人がいかに徳の高い人物かを示すのだ。

進撃の巨人』の諌山創『フード理論』に影響を受け、自身の作品にも取り込んでいると公言している。
lite-ra.com

巨人が人間を食べても消化せず、吐いてしまう理由、リヴァイ兵士長が食事をとらない(とる描写をしない)理由は、このフード理論にあるらしい。

この巨人が人間を吐くという行為には、福田も「“食べ物を粗末にする”という観点で見ると究極の悪に感じられ、消化吸収しないのでまったく“腹の底が見えない”とも感じて、その腑に落ちなさ具合に戦慄」したと語っている。食物連鎖の一環として食べられるほうが、まだ理解のしようがある。

「その方向もあったと思うんですけど、設定的に吐いちゃうということにしました。あと付けですが、巨人が暴食なのに食ったものを吸収しないというのは、フード理論的には(笑)最悪の冒涜で、それが巨人の得体の知れない恐怖になると思っていて。」

14巻の食事シーンでは、人物それぞれの特性が、フードによって表現されている。

「サシャはもう汚いんですよ、ガーッと食い散らかして、コップとか倒れてる。ミカサはなんか豆だけ食ってないとか。そしてリヴァイは全く手をつけないんですよ」

 そのクールさで絶大な人気を誇るリヴァイは、食べないのだ。これについて、諌山は「リヴァイが人間味というか腹の底を見せちゃまずい」と解説している。

現在連載中の作家で、しかもフード理論を取り込んでいると明らかにしてくれているというのは面白い。特に『進撃の巨人』は先の読めない展開や登場人物の裏切り、どんでん返しが見どころだし、フード理論に基づいて注意深く見ていけば、そのシーンが暗示するものを読み取ることもできるだろう。あるいはこうして公言している以上、フード理論の原則をあえて破るということも、もしかしたらあるかもしれない。

そもそもこのフード理論が世に出たきっかけは、著者の料理研究家・福田里香がライムスター宇多丸のラジオに投稿した手紙だった。『進撃』の諌山先生がフード理論を知ったのも、このラジオがきっかけだったようだ。

下に貼ったのは、黒澤明七人の侍』でのフード描写について。著者によれば『七人の侍』は「米」をめぐる物語、フード映画の最高峰。映画中のフード描写をこと細かく語っている。



宇多丸が福田里香と『「七人の侍」は、最高の食育映画だ! 名作の裏にフード理論あり!』を語る

優れた物語でフード理論・フード描写が用いられるのは、セリフやナレーションを使わずに登場人物の感情や関係性を、エピソードや非言語的な語り口ではっきりと観客に可視化するためだ。考えてみれば確かに、直接的な言葉で親愛や不信感を説明されるのはなんともいえずダサいし、下品に感じる。好きな映画や漫画など、あらためて『フード的観点』で見返してみると、新しい発見があって面白いかもしれない。


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