才能の原点

ためしに買ってみたペンタブがなかなか面白い。休みなのをいいことに一日中遊んでます。

それでふと「絵を描くこと」の原体験はいつかなと思い返してたんだけど、たぶん4歳くらいの時だろうと思う。そのころ僕は飛行機が大好きで、夏休みなんかには毎日「飛行場に連れてって!」とうるさかったらしい。当時のビデオも残ってる。で、その時見た飛行機とか、あとは乗り物図鑑を見ながらお絵かき帳にひたすら描きまくっていた記憶がある。


その後も絵を描くことって嫌いじゃなくて、今でも授業ノートは落書きとその消し残しだらけで超見にくい。とはいっても美術部や漫研に入ってたことはないし、まぁ時々気が向いたときに好きなだけやって満足するってことが多かった。それでも一度描きだせば不思議と疲れを感じず、何時間でも描いていられる。自惚れているようだけど、僕に何か才能があるとすればこれだと思う。「絵を描くことなら(体力が持つ限り)いくらでも続けていられる」ということ。決して絵の上手い下手ではありません。


実は僕の兄弟はみなそんな感じで、昔からよく絵の見せ合いっこをしてました。びっくりしたのは、末の弟が3歳になるかならないかって時にはもう、紙とペンで毎日何か一生懸命描いていたこと。あらかじめ決まっていたことのように、誰が言うでもないのにもくもくと描いているのを見ていると、やっぱり偶然には思えなかった。


僕にとって「絵を描くこと」って自分の中で何かシステム化された、先天的にインプットされた行動なんじゃないかと思える。そしてただそれに身を任せているだけのような。偉そうに聞こえるかもしれないが、そうとしか言いようがない。そしてこのことは、実はかなり貴重で尊いものなんじゃないかと思う。誰もがこういった、お金や名誉がなくとも、無条件でいくらでも没頭できるほど「好きなもの」「やりたいこと」を見つけられるわけじゃないと思うからです。それが早めに見つかった僕は、運が良かったんだろうと思う。


ただ思うのは、「才能の原点」がもし、こういう「無条件で没頭できること」にあるのだとすれば、今使われている才能と言う言葉はあまりに範囲が狭いと感じる。


その分野で一流の人たち、例えば手塚治虫は「漫画の神様」と呼ばれるけれど、彼は癌で入院中も死の直前まで漫画を描いていたらしい。それは彼のプロ根性や責任感がそうさせたと見る向きもかるかもしれないけど、やっぱりそれは考えにくい。ただ描いていたかっただけでしょう。

島田紳助がかつて話していたのは、「自分はお笑いに関して努力したことは一切ない」ということ。では彼が何もしなかったのかと言われれば、そうじゃない。むしろ凄まじいほど漫才を研究して、練習してました。でも彼はそれを「努力」とは呼ばない。他人から見ればどう考えても努力なんだけど、紳助にとってはそうじゃなかった。やっぱり根底にあるのは、「喋ること」の追求を「やりたいからやっただけ」という、ある種システム化された行動なんじゃないかと思うのです。


とは言っても、ここまでの「才能」はなかなかないとは思う。ですが、スポーツでも勉強でも、漫画でもゲームでもプログラミングでもナンパでも、書くことでも人と話すことでもいいんだけど、いくらやっても飽きないとか、夢中になれること・ものがあること自体を「才能」と呼んでもいいんじゃないかと思う。それは先天的なものに限らず、後天的なものも含めて。つまり何が言いたいかというと、「才能」って言葉をもうちょっとカジュアルに、楽に使ってみるのもいいんじゃないかということです。


例えば漫画が好きで何時間でも読んでいられる人ならそれは「才能」です。全く何も好きなことがないって人は多分それほどいないから、みんな何かしら才能があるってことになる。無条件に没頭できるものがある、これを「才能」と呼ばずして何と呼ぶ、というかんじ。


別に上手い下手はどうでもいい。上手い下手で「才能」を測ろうとすれば、相対評価である限り99%は必ずどこかで「下手」で「才能なし」になってしまうからです。一般的に「才能」と言う言葉は客観的な実力や世間の評価を伴ってそう呼ぶことが多いけど、そのせいで特に今の日本では「才能」の扱いが過剰気味で、それが逆に振れて異常な「努力」信仰をつくっているように感じる。実力が伴ってこその「才能」では、それが他人に評価されないという一点で「才能がない」という評価を受けかねない。もしそれで嫌気がさしてやめてしまうなら、すごくもったいない。時間を忘れて没頭できる何かがある、それは「才能」だと思うし、思ったよりずっと貴重なものなんじゃないかなぁと思うのです。

自分の才能の見つけ方

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