「上手くなってから」ではなく「上手くなる前提」でいこう

2014年になってもう一週間が経ちました。新しい年も迎えたことだし、これを機に何か始めようって人も多いのかなと思います。僕も今年は、去年以上に色々やりたいことがあります。

小さい頃習い事をしていて道具が必要になった時、僕は親によく「弘法筆を選ばず。上手くなってからいいものを買ってあげる」と言われ、(言い方は悪いけれど)あまり質の良くない道具を使っていました。当時もよく思ったことですが、道具の良し悪しというのはかなり本人の実力を、そして成長を左右します。


僕の親はこの言葉を

「自分の技量の不足を道具の所為にしてはならない」
弘法筆を選ばず - ウィクショナリー日本語版

と言う意味で使ったんだと思います。確かに自分の実力を全部道具のせいにしてしまうのはよくないですが、一方でこの言葉、使われ方によっては道具軽視や、もっというと努力至上主義とか下積み原理主義に近い発想を(道具を使う子供に)植え付けてしまうんじゃないかと思います。


「道具が悪くても関係ない、それは自分の実力が足りないせいだ、努力不足だ」とか、「道具が多少悪くてもこつこつ練習を続けていれば関係なくなる」とか。一部正しいけれど、これから何か始めようって時にその子が初心者だからと言ってあまり深く考えずテキトーなものを買い与えるのは、もったいないなぁと感じます。「その子に合ったレベルで」なんて言葉もよく聞くけれど、実際そんなものがあるんだろうか。仮にあったとして本当に「その子のレベル」に合ったものを与えるのが正解なんだろうか。


自分にもし子供ができて何かスポーツでも芸術でも始めようとなったなら、僕はできるだけ最良の道具を与えたい。例えば野球をやるとなった時、できるだけ良い、つまり高価なグローブを買ってあげたいのです(“高価=質がいい”というわけではないけれど、大抵の場合これは正しいというのが僕の実感)。「この道具に見合うだけ上手くなれよ」というメッセージも込めて。


「弘法筆を選ばず」は、名人なら何を使ってもある程度のパフォーマンスが出せるという意味であって、道具にこだわらないという意味ではありません。何かに優れた人ほど、その実力の要である道具を選ばないなんてことはないのです。僕の経験から言っても、部活等で優れた実力をもった人ほど道具に関する知識が多かったし、自分に合ったものが何かを良くわかっていました。そして当然と言えば当然ですが、それはそれなりに「良いもの」「高価なもの」であったように思います。高いから良いというわけではないし、自分に合ったものが何かという視点を忘れちゃいけないと思うけど、(その子の)実力やセンスでない部分である「道具」や「環境」は、できる限り最高のものがあった方がいい。その方が「自分の技量の不足を道具の所為に」せずに済むと思う。


もちろんこれは自分が、自分なりにこだわりたいと思ったものにはそれなりにお金を掛けたいという気持ちがあるからです。どうでもいいものはもちろん別ですが、何か始めようというとき「上手くなってから」なんて考えてたら自分の成長を遅らせるか、阻害するだけだと思う。だからなるべく「上手くなる前提」でいきたいのです。

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