徒然日記-20150821

将来の働き方みたいなものに思い馳せることが多い最近。同期や先輩と上手くやっていけるかなとか、仕事ちゃんとこなせるかなとか、この時期の学生なら誰でも考えるであろう答えの出ない問いがぐるぐると頭を掻きまわして、夏の暑さとともに僕の気力と集中力を奪っていく。


マグロは常に泳ぎ続けていないと死んでしまうらしい。それを初めて聞いたときは、可哀想だな、自分は人間でよかった、夜になったら眠って何も考えずに済むし、なんて思ったけれど、最近はむしろマグロの方が楽な生き方かもしれないなと思う。泳ぎ続けないと死んでしまうということは、裏を返せば「泳ぐことに常に一生懸命でいられる」ということだ。余計なことを考える暇、余計なことに悩む暇すらないというのはある意味最高の幸せだろう。とかく、悩むという行為は体力を使う。悩みの原因を分解して実行可能なタスクに変えるか、時間の経過によって悩みの原因そのものが消えてしまわない限り、それは永遠に頭の中を回り続ける。いつまでに、何を、どのように悩めばいいのかすらわからないと、必要以上に疲れてしまう。


就活中はそれなりに必死だったので、たまに面接で訊かれる「将来うちに入社して、どんな仕事をしたいか?」みたいな問いに、適当に答えていた。適当、というのは要するにテキトーだったということで、つまり真剣ではなかった。その場しのぎにそれらしいことを述べておいて、内心「そんなもん分からんし今はどうでもいいから職をくれ」というかんじだった。と言っても、それを今後悔している、という話ではなくて、あの時後回しにした問題について、少し考えてみるべき時期が来ただけだと思っている。その当時も今も、「後(内定後)で考えればいいでしょ」という気持ちは変わっていない。だから就活中の受け答えはテキトーではあったけれど、その場の解答としては適当だったのである。


とはいえ「入社して、どんな仕事をしたいか?」という問いへの答えは「わからん」の一言でしかないし、そもそも考える気がない。それよりも、今後どんな形であれ学生ではなくなるのだから生活のためにお金を得なければならず、お金を得るには働いて稼ぐのが最もポピュラーでスタンダードで、その分だけ門戸も広い選択肢だし、まぁ他にやりたいこともないのでひとまず働くしかない。でも最近考えているのは、来年から働く会社に一生属することはほとんどありえないだろう、ということだ。より具体的には「遅かれ早かれ、転職するだろう」という予感がある。入社以来30年とか40年、ひとつの企業で働いてきたという大人が僕の周りにもいるけれど、将来の自分が同じように生きられるとはとても思えないからだ。僕はそれほど革新的な人間ではないし、むしろ保守的なんだけど、大学に通って4年目の今ですら大学にはすっかり飽きているし、その10倍近い年数を同じ環境で過ごすなんてそれこそ退屈で死ぬんじゃないかと思う。まぁでも案外人間は「それが普通だ」と思ってしまえば受け入れてしまえるのかもしれないし、なんとなく5年10年働いているうちに今度は変わることの方がしんどくなってくるのかもしれない。僕は僕の氏名で20年以上生きているけれど、そのことにたまに退屈を感じるけれど(もっとかっこいい名前が良かったなとか)、面倒な手続抜きで今この瞬間名前を変えていいですよと言われても多分断ってしまうだろう。


しかしあらゆる意味で、自分の健全性を保つためには『変わる』というのは絶対必須であるように思われる。望む望まないに関わらず社会の環境は変わっていくし、人の世に住む以上それと無関係ではいられないから、自分も変わってしまうし変わるしかない。自分の変化に気づかず、自分のしたいことしたくないこと欲しいもの欲しくないものその他欲望の類に対する嗅覚を失ってしまうのは怖い。働き方に関して言うなら、仮に自分の企業が倒れても大丈夫なようにスキルや専門性や強みを身につけておきなさいとか、嫌というほど聞く。そういうのも決して間違ってはいないと思うんだけれど、考え方としてはやや矮小化されてしまっているような気がしなくもない。上手く表現できている自信はないし、包括的な分だけ焦点がぼやけてしまうけれど、「自分や世の中に対する嗅覚」と「したいことを即座に実現できるだけの(あるいは、実行に移せるだけの)力」と言ったほうがしっくりくる。どちらが欠けてもうまくいかないだろう。

裏・表があるくらいで人間はちょうどいい


一人でいるときや親しい人の前で見せる自分と、より公的な場で見せる自分は違う。まぁ意識しなくたって自然と使い分けてる人が多いと思うんだけど、少し前まで僕は自分の中にそういうギャップがあることに違和感というかバランスの悪さをかんじていて、なるべく両者を統一しておきたいと思ってた。こういう心の作用自体は自然なことなのかな思うものの、気を付けておかないと危険なことなのかも、と最近は考えてる。


いわゆるブラック企業と呼ばれるところでこき使われ、過労死する人がいるらしい。そういう人はある種の洗脳状態にあるのだと思うけれど、ここでいう洗脳とはつまり「本音と建て前を切り替えられなくなった状態」「本音と建て前が同化した状態」なんじゃないか、と思うのだ。両者のギャップがひどくなれば、それに耐えきれず建て前を自分の本音と思いこもうとする。すると自分の気持ちの中でバランスもとれるし、不安定な状態からは逃れられる。自分の置かれている環境へ適合できるから楽になる。でも実際は自分の心を相手にあけ渡してて、キケンな状態だ。

うつ病になる人には生真面目な人が多いらしい。ここでいう真面目さって、「オモテでは要領よく周りに合わせたり打算的なことも口にするが、ウラではその真逆のことを平然としてのけたり、普段仲良くしてるように見える人の悪口も言う」こういうのに罪悪感を感じたり、なんらかの義に反するような気持ちが強いことを含んでるんじゃなかろうか。


建て前と本音の切り分け作業がうまい人って、比較的明るい人が多い。「自分は今建て前を話している」「今は本音を話してる」こういうのを自分でわかったうえで話してるうちは健全なんだろう。言ってることや態度にあまりにギャップがあるとただの信用できない人だけど、「自分」ってものが他より曖昧で影響を受けやすいと自覚してる人ほど、ある程度ウラとオモテを意識的に切り分ける術を身につけといたほうがいいんだろうなぁと思う。程度によるが、人間、裏表があるくらいでちょうどいいのだろう。

ビッグリバーシ

ビッグリバーシ

わが とうそう

突然だが私はエロ本というものを買ったことがない。

「またまたご冗談を」「それでもチンコついてんですか君」とお思いの方、これは誓って本当のことである。マジで買ったことがない。そして今さらながらそのことをちょっぴり後悔してたりする。いやまぁ、一応まだ二十代前半だし、「今さら」なんて言うほどの年でもないのかもしれんけど、やっぱり男子として一度「エロ本を買う」という行為をしてみるべきなんじゃないかとふと思った。漫画とかアニメではよく思春期男子の通過儀礼っぽいかんじで描かれるけれど、やっぱりみんな買ってるもんなんだろうか。


この歳になるまで買わなかった理由はと考えても「特に欲しいと思ったことがないから」以外には、ない。ただ、興味がないかといえば大ありだったので、より正確に言えば「欲しいと思うこと(を自覚すること)さえないほど臆病だったから」が理由だと思う。誰しもそうだと思うけど、本屋にしろコンビニにしろ、少なくとも店員にははっきり買ってるところを認識される衆人監視下にあるわけなので当然恥ずかしい。その恥ずかしさとエロへの渇望のせめぎ合いで、私の中で後者はあっさり敗れ去り、公にはほとんど顔を出すことはなかった。しかしそれだけならもしかすると、何かの間違いか勢いにまかせるかして買ってしまうこともあったかもしれない。しかし幸か不幸か、私が思春期真っ盛りのころには素晴らしき文明の利器「PC」、そしてエロの無限供給を可能にする神のインフラ「インターネット」が我が家にも整備されていて、そっちで「いろいろと」賄えたのがかなり大きかったと思う。といっても一家に一台しかないデスクトップPCだった上、リビングのど真ん中に鎮座していたので、昼間っから家族の目の前で「エロ 画像」とかって検索するわけにはいかないし、もしそんなとこ母親なんかに見つかったら本気で死ぬくらいの危機感はあったから、夜寝静まったあとの数時間くらいしかチャンスはなかった。


横道に逸れたので戻す。とにかく私はエロ本を買ったことがない。ので、失われた思春期を取り戻すべきなんじゃなかろうか、という話である。また逸れてしまうけど、そういえば私はアダルトビデオをレンタルした経験もない。あの嫌でも目を引く派手なピンクの暖簾。そこを潜って自分好みを物色し店員に差し出すなんて中防の頃はとてもじゃないができなかったけど、でも考えてみれば圧倒的にAVレンタルするほうがハードル低い。今ならわかるがなんというかそもそも、レンタルビデオ屋自体にそういうのを黙認する優しい空気がある。コンビニとか本屋でエロ本買うのとはまた違う。とはいえ実家を離れ一人暮らしを始めて早数年経つ今になってもそういうのを借りたいと思ったことはないので、やっぱりエロの錬金術ことインターネットの影響は計り知れない。エロ本やアダルトビデオが対象だと、なぜだかそれに向かう欲望にもいくらか流れやメリハリが生まれるような気がするけれど、インターネットはそうしたエロい欲望を慢性的に吸い取ってしまう。男子が草食化してる(ようにみえる)のもかなりこいつのせいなんだろう。エロにとってネットはあまりに偉大過ぎた。ちなみに私はビデオ屋で、単なる興味本位でエリア18に足を踏み入れたことくらいはあって、けっこうドキドキして楽しかったんだけど、しばらく見て回った後も、別に借りる必要はないなと冷静に考えて引き返した。単純に「汚そう」っていうのもあったし、それに関しては今考えても至極まっとうな判断だったと思う。


世の男子が社会的な抑圧と自意識と戦い打ち勝つ儀式が「エロ本を買う」という行為ならば、それをすませない限り半人前なんではなかろうか。しかしこれはもはや時代遅れな感性なのかもしれない。エロの供給源が雑誌や漫画にしかなかった時代ならば、その敷居を越えることこそが思春期男子の至上命題だったかもしれないが、しかしこれだけありふれたものになった今ではハードルを設ける意味もわからない。手段と方法、つまり金さえあれば、東京―大阪間を移動するのに新幹線を使うのが普通だ。わざわざ在来線を乗り継いで行くなんてよほど暇な場合のみだ。しかし、それでも、車窓から見える景色は明らかに違うし、もしかするとその違いこそが、今私に欠けている気がしているモノなのかもしれない。


***追記****

昨晩どうしても寝付けないので読書してたら完全に目が覚めてしまって、じゃあ仕方ないブログでもってことでいかにも夜中のテンションで書きましたみたいなエントリあげたら沢山言及いただきました。ありがとうございます。

zuisho.hatenadiary.jp

xkxaxkx.hatenablog.com

bebemu.hatenablog.com

こんな言及来ると思ってなかったんですがそれぞれ何かしら、特にその時代ごとにエロコンテンツ入手の方法も難易度も異なるらしいってあたりが引っかかってくれたらしく、ベッドで女の子腕枕しながら大変面白く読ませてもらいました。はい。

で、まぁそれはいいんですけど、とりあえずこういう時代ごとのギャップや育った環境ってのはやっぱあるんだなと。ズイショさんのおっしゃってたゲーム機の話にしてもそうですけど、エロに限らずその時代のテクノロジーの発達具合ってのはやっぱ影響デカそう。というかそれに尽きると言っていいかも。僕は高校一年でやっと携帯買ってもらえたんだけど、それがちょうど2007年かそこらのモデルだった。ワンセグは見れなかったが一応ネットは繋がったし、適当に画像漁るくらい訳なかったので環境としては恵まれてたんだろう。

もう90超えてる祖母がよく「自分が20歳の頃は戦後まもなくて食べるものもろくに無いわ衛生管理も悪いわで今じゃ考えられない環境だった、しかしそのぶん逞しい。今の若い子は恵まれすぎてる」みたいな話をよくするんだけど、そりゃそんな環境、たぶん日本が一番貧しかった頃を生きた人からしたら僕らが弛んでるように見えても不思議じゃない。世の中便利になって、色んなことがカンタンになれば当然それまで否応なく必要だった「獲得するスキル」ってのは廃れてしまう。その意味で僕はエロを獲得するスキルやマインドってのは薄いんだろうけど、じゃあ今までの人がその獲得に向けていたエネルギーはどこへ行ったんだろうと思った。人の能力自体はそれほど変わると思えないし、たぶん上の世代が持っていないなんらかのスキルに還元されてるんだとは思うけど、それが可視化されるのは次の世代がもっと大きくなってからなんですかね。

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