『かぐや姫の物語』を観て②

かぐや姫の物語」を観た感想文二つ目。
前エントリー⇒『かぐや姫の物語』を観て - Ust's Diary

原作との比較―かぐや姫は「高貴な女性」か?

原作の「竹取物語」は映画を観る前に読みかえしておきました。
そこで感じたのが、高畑監督は非常に原作に忠実に作っているなということ。原作の枠からははみ出さず、それをより深く掘り下げてる印象です。


原作を読んだ時のかぐや姫の印象(人物像)は「美しく芯の強い、はっきりした女性」のみでしたが、映画のかぐや姫「自由闊達でユーモアあふれる元気いっぱいな少女」「美しく芯の強い女性」の両面が描かれています。野山をはだしで駆け回ったり、泥だらけになって悪ガキたちと遊ぶ姿というのは、原作をさらっと読んだ限りじゃ見えてこない。見えてこないから原作とはまた違うかぐや姫なのかなと最初は思いましたが、よく考えるとこれこそ、本当の意味で原作に忠実なかぐや姫なんじゃないかと思い直しました。


映画と原作との大きな違いを挙げるとすれば、かぐや姫の成長の場、住む場所の違いです。原作の竹取の翁はもともと住んでいた山に屋敷を建てますが、映画では姫のためにと都に屋敷を構える。野山での暮らしはほんの数か月で、その後はずっと、かぐや姫には息苦しい都での「高貴な」生活が始まるのです。話の後半4分の3くらいは舞台は都であり、それが「竹取物語」に比べ悲痛で残酷に感じる最たる理由でしょう。


原作のかぐや姫はずっと、生まれ育った山で暮らします。そんなかぐや姫はいつも凛として上品なたたずまいであるという印象でしたが(実際そう描かれていましたが)、よく考えると山や川が大好きで、都暮らしに全く興味もないような人ならば、もっと野生的で自由奔放な少女でなければおかしい。鳥や花を愛でつつ歌なんか読んで「お高くとまる」のではなく、雉狩りをしたり、人の畑にあるものを盗んで食べたり、恋だってするのが本当の姿。かぐや姫は本来高貴でしとやかな女性ではなく、どこにでもいるただの田舎娘なんです。「姫君」より「たけの子」の方がしっくりくる。原作者の意図はもちろん知る由もないけれど、高畑監督のかぐや姫は原作の枠をはみ出すどころか、非常に忠実に描かれているのではないか。これを観て僕が今までもっていた「かぐや姫像」みたいなものは、一気に崩れました。

風立ちぬ」との比較―再構築と深化

宮崎監督の「風立ちぬ」と比較してみる。
まずは話の組み立て方が全く違う。宮崎監督はタイトルこそ原作通りですが、映画は全く違います。一度完成させているブロックを一度バラバラにし、再度構築しています。一方で「かぐや姫の物語」はかなり原作に忠実です。既に書いた通り「与えられた枠の中でさらにそれを深く掘りさげる」のが高畑監督のスタイル。彼は制作にあたって大量の資料や文献を徹底的に調べるらしいので、おのずとそうなるのでしょうか。


この二作品に共通するものがあるとすれば「生きるとは」みたいなものでしょう。それもただ生きるって楽しいよと言うのではなく、そこにある矛盾みたいなものも描いている。「風立ちぬ」では主人公は戦争の道具を作り出していると知りながら、それでも夢を追い求める。「かぐや姫」では孤独や絶望を抱えながら、それも含めて生きることだと知る。その中で「この世は生きるに値するんだ」という強いメッセージが伝わってきます。

ちなみに、僕は「風立ちぬ」より「かぐや姫」のほうが好きです。単純に娯楽として楽しめたし、元の話をよく知っているからか共感を持って話に入り込めた気がします。子供受けがいいのもかぐや姫でしょうし、今後かぐや姫のアニメといえばこれ、みたいな作品としてずっと観られていくでしょう。それだけの完成度をもった作品だと思います。考察とか批評のし甲斐があるのは「風立ちぬ」かもしれないですが。

その他思ったこと

・映像美は流石の一言。竹取物語の雰囲気にぴったり

・帝のナルシストっぷり、クズっぷりが笑える。「私に抱きしめられて喜ばなかった女はいないのだよ」にぞわぞわっとした。

・「わらべの歌」を高畑監督が作詞だけでなく作曲していることにびっくり。音楽もできるんですか。

・「風立ちぬ」にそっくりなシーンがあった気かがする。すて麻呂とかぐや姫が抱き合って落下するところ。偶然じゃないと思う。

・月の使者たちが奏でる音楽が某ネズミの国の「エレクトリカルパレード」の音楽にそっくりだと感じたのは僕だけでしょうか。


<