僕は電車を待っている。

ビュウとひとつ風が吹いて、僕を通り抜けた。手に持った本のページが数枚、ぱらぱらとめくれる。

3月も半ばを過ぎたというのに、風はまだまだ冷たい。思わずネックウォーマーに顔を埋めた。
読みかけの小説をリュックに仕舞い、ピーコートのポケットに両手を突っ込む。

視線を上げ、線路の端へ目を向ける。まだ、来ないか・・・
ほっとしたような、でも少し苛立つような、へんな気分になった。

駅のホームでベンチに座り、僕は電車を待っている。

何でもいい、とにかく切符さえ手にできれば――
去年の今ごろは、そんなふうにも思っていた。

学生生活がちょうど4分の3を過ぎた頃。
何かに引きずられるようにして、この「モラトリアム駅」へやって来た。
あと一年で僕らは「シャカイジン」になる。そんな決まりがあるようで、ないようで、やっぱりあるようで。よくわからないが、そういうことらしい。

とはいえ、全員が切符をもらえるわけではない。
ひとまず皆、黒いスーツに身を包み、髪を整える。そして塩素消毒を済ませたような履歴書を片手に、駅員のガイダンスに耳を傾けた。
審査基準は、あちらの求める「型」にきちんとはまるか、否か。

「型」とは何か。初めはよくわからず、不安もあった。
しかし審査が進むにつれ、感触がつかめてきた。ようは無難で、適当な人間を演じればいい。
どこにでもはまりそうな、ありふれたパズルのピースに擬態するのだ。
これまで周りから大きくはみ出すことなく生きてきた僕にとって、それは想像していたほどに難しいことではなかった。

通過するだけなら。

しばらくして、無事切符をもらえた。
少し得意になって、周りを見回してみる。なかなか審査を通過できず、苦い顔をする人。早々に審査をパスしたのか、涼しげな顔をしている人。すでに諦めてしまったのか、寝転んでぼんやりと空を眺めている人。しかし大半は、それぞれ目の前の戦いに集中して、必死な表情だ。

がんばれ、と心の中で呟いて、僕は改札へ向かう。切符を改札へ通す。
どうやらこれで、「シャカイジン」になる資格は手に入れた。
努力はした。「君なら為れる」と認められた。親しい人はみな喜んでくれた。ほっとしたし、嬉しかった。

しかし誇る気にはなれない。
なぜなら、わかっているから。勝負はむしろ、これからなのだと。

ふと、「これでよかったんだろうか」と思った。
僕はほんとうに、資格を手に入れたのか。信用していいのだろうか。

新たに湧いてきた不安が足に絡みついて、歩くスピードが落ちる。

これでいい、と僕は思い直す。
どっちにしろ、行ってみなきゃわからないじゃないか。だからとりあえず、これでいい。

ホームへ続く階段を、二段飛ばしでのぼる。
とりあえず、これでいい。
そうやってこれまで、いくつかの電車を乗り継いで来た。自分はこれからも「とりあえず」を繰り返して生きていくのだろうか。
迷いは消えてくれない。
僕はとりあえず、それに気づかないふりをする。

ホームへ上がると、風が少し冷たかった。
もう秋か、と思った。

手頃なベンチを見つけ、その端に腰を下ろす。
リュックから買ったばかりの小説を取りだして、読み始めた。

「何してんの、お前」
ぼーっとしていたら、友人が声をかけてきた。

「ちょっと考えごとだ」

「あ、もしかして俺のこと?ごめんな~俺がいなくてさみしかったよな~」

「やめろ気色悪い」

「それより昨日のあれ観た?今期のアニメ、マジ豊作だな」

聞いてない。
ドカッと僕の横に腰を下ろす友人。

まあいいか。
それから、とりとめなく、いろいろな話をした。いろいろな、と言っても、付き合いが2年にもなると話題は大体決まってくる。
ああ言えばたぶん、こんな答えが返ってくるだろう。ほら、やっぱり。
いつもならそんな予定調和にすぐ飽きて、なんとか崩してやろうと変化球を放ってみるだろう。

でも今はなぜか、そんな気にならなかった。確かめるように、使い慣れた道を通るように、いつも通りの会話をなぞっていく。
すると、こんな日々が永遠に続くような気がしてくる。夏の昼下がりみたいな気怠く心地よい時間が、これからもずっと。

「そういえば、行き先、決まったんだな」
友人が思い出したようにそう言った。

「まぁなんとか」

「よかったな」

「ありがと。お前は?」

「俺も」

「おめでとう」

友人が腕時計にちらと目を落とした。さて、と言いながら立ち上がる。

「行くのか」

「ああ、俺、f番線のホームだから。そろそろ電車来るし」

「そうか」

「じゃ、またな」

「ああ、元気で」

この期に及んでもまだ、これが最後とは思えなかった。

友人は一度も振り返らず、ホームの階段を下りて行った。
僕はその姿が見えなくなるまで見送っていた。


『まもなく n番線に 電車が参ります』
電車の到着を告げるアナウンスがホームに鳴り響いた。

自分と同じく、電車に乗って行く人。
切符をもらいそびれ、次の電車を待つ人。
そもそも電車に乗ることをやめ、徒歩で目的地へ歩き出す人。

それぞれが自分の道を選びとっていく。
主体的な選択があれば、とことん受け身な選択もあるだろう。

時は皆を平等に押し流す。
どんな形にせよ、同じ場所に止まってはいられない。


アナウンスが鳴り、電車がホームへ到着するまでの寸刻。
僕はなぜか、無性に小説の続きが読みたくなって、がさがさとリュックを漁った。
読んでいる時間などない。すぐに電車が来る。

それでも僕は、小説の続きが読みたかった。

僕は焦っていた。
立ち上がりたくない。ずっとこのベンチに座っていたい。
やり残したことが、まだたくさんある気がした。

本を取り、開く。
手が悴んで上手くページをめくれない。

目当ての場所を見つけた。
文章を目で追うが、内容は全く入ってこない。
二回、三回。同じ行を行ったり来たりする。

諦めて、本を閉じた。
すぅと息を吐くと、少しだけ気分が晴れた。


モラトリアム駅発、新卒シャカイジン行き。

この電車は僕をどこへ連れて行くのか。それは僕の望む場所だろうか。たぶん、そうとは限らない。
どこかで乗り換えることもあるだろう。
電車をやめ、徒歩か、車か、あるいは飛行機に乗り換えるかもしれない。

行き先を見据えよう。景色を楽しもう。
なるべく、居眠りはせずに。


ホームに警笛が鳴り響いた。
もう間もなく、到着だ。

n番線のホームに立って、僕は電車を待っている。

<