ビュウとひとつ風が吹いて、僕を通り抜けた。手に持った本のページが数枚、ぱらぱらとめくれる。
3月も半ばを過ぎたというのに、風はまだまだ冷たい。思わずネックウォーマーに顔を埋めた。
読みかけの小説をリュックに仕舞い、ピーコートのポケットに両手を突っ込む。
視線を上げ、線路の端へ目を向ける。まだ、来ないか・・・
ほっとしたような、でも少し苛立つような、へんな気分になった。
駅のホームでベンチに座り、僕は電車を待っている。
☆
何でもいい、とにかく切符さえ手にできれば――
去年の今ごろは、そんなふうにも思っていた。
学生生活がちょうど4分の3を過ぎた頃。
何かに引きずられるようにして、この「モラトリアム駅」へやって来た。
あと一年で僕らは「シャカイジン」になる。そんな決まりがあるようで、ないようで、やっぱりあるようで。よくわからないが、そういうことらしい。
とはいえ、全員が切符をもらえるわけではない。
ひとまず皆、黒いスーツに身を包み、髪を整える。そして塩素消毒を済ませたような履歴書を片手に、駅員のガイダンスに耳を傾けた。
審査基準は、あちらの求める「型」にきちんとはまるか、否か。
「型」とは何か。初めはよくわからず、不安もあった。
しかし審査が進むにつれ、感触がつかめてきた。ようは無難で、適当な人間を演じればいい。
どこにでもはまりそうな、ありふれたパズルのピースに擬態するのだ。
これまで周りから大きくはみ出すことなく生きてきた僕にとって、それは想像していたほどに難しいことではなかった。
通過するだけなら。
しばらくして、無事切符をもらえた。
少し得意になって、周りを見回してみる。なかなか審査を通過できず、苦い顔をする人。早々に審査をパスしたのか、涼しげな顔をしている人。すでに諦めてしまったのか、寝転んでぼんやりと空を眺めている人。しかし大半は、それぞれ目の前の戦いに集中して、必死な表情だ。
がんばれ、と心の中で呟いて、僕は改札へ向かう。切符を改札へ通す。
どうやらこれで、「シャカイジン」になる資格は手に入れた。
努力はした。「君なら為れる」と認められた。親しい人はみな喜んでくれた。ほっとしたし、嬉しかった。
しかし誇る気にはなれない。
なぜなら、わかっているから。勝負はむしろ、これからなのだと。
ふと、「これでよかったんだろうか」と思った。
僕はほんとうに、資格を手に入れたのか。信用していいのだろうか。
新たに湧いてきた不安が足に絡みついて、歩くスピードが落ちる。
これでいい、と僕は思い直す。
どっちにしろ、行ってみなきゃわからないじゃないか。だからとりあえず、これでいい。
ホームへ続く階段を、二段飛ばしでのぼる。
とりあえず、これでいい。
そうやってこれまで、いくつかの電車を乗り継いで来た。自分はこれからも「とりあえず」を繰り返して生きていくのだろうか。
迷いは消えてくれない。
僕はとりあえず、それに気づかないふりをする。
ホームへ上がると、風が少し冷たかった。
もう秋か、と思った。
手頃なベンチを見つけ、その端に腰を下ろす。
リュックから買ったばかりの小説を取りだして、読み始めた。
☆
「何してんの、お前」
ぼーっとしていたら、友人が声をかけてきた。
「ちょっと考えごとだ」
「あ、もしかして俺のこと?ごめんな~俺がいなくてさみしかったよな~」
「やめろ気色悪い」
「それより昨日のあれ観た?今期のアニメ、マジ豊作だな」
聞いてない。
ドカッと僕の横に腰を下ろす友人。
まあいいか。
それから、とりとめなく、いろいろな話をした。いろいろな、と言っても、付き合いが2年にもなると話題は大体決まってくる。
ああ言えばたぶん、こんな答えが返ってくるだろう。ほら、やっぱり。
いつもならそんな予定調和にすぐ飽きて、なんとか崩してやろうと変化球を放ってみるだろう。
でも今はなぜか、そんな気にならなかった。確かめるように、使い慣れた道を通るように、いつも通りの会話をなぞっていく。
すると、こんな日々が永遠に続くような気がしてくる。夏の昼下がりみたいな気怠く心地よい時間が、これからもずっと。
「そういえば、行き先、決まったんだな」
友人が思い出したようにそう言った。
「まぁなんとか」
「よかったな」
「ありがと。お前は?」
「俺も」
「おめでとう」
友人が腕時計にちらと目を落とした。さて、と言いながら立ち上がる。
「行くのか」
「ああ、俺、f番線のホームだから。そろそろ電車来るし」
「そうか」
「じゃ、またな」
「ああ、元気で」
この期に及んでもまだ、これが最後とは思えなかった。
友人は一度も振り返らず、ホームの階段を下りて行った。
僕はその姿が見えなくなるまで見送っていた。
『まもなく n番線に 電車が参ります』
電車の到着を告げるアナウンスがホームに鳴り響いた。
☆
自分と同じく、電車に乗って行く人。
切符をもらいそびれ、次の電車を待つ人。
そもそも電車に乗ることをやめ、徒歩で目的地へ歩き出す人。
それぞれが自分の道を選びとっていく。
主体的な選択があれば、とことん受け身な選択もあるだろう。
時は皆を平等に押し流す。
どんな形にせよ、同じ場所に止まってはいられない。
アナウンスが鳴り、電車がホームへ到着するまでの寸刻。
僕はなぜか、無性に小説の続きが読みたくなって、がさがさとリュックを漁った。
読んでいる時間などない。すぐに電車が来る。
それでも僕は、小説の続きが読みたかった。
僕は焦っていた。
立ち上がりたくない。ずっとこのベンチに座っていたい。
やり残したことが、まだたくさんある気がした。
本を取り、開く。
手が悴んで上手くページをめくれない。
目当ての場所を見つけた。
文章を目で追うが、内容は全く入ってこない。
二回、三回。同じ行を行ったり来たりする。
諦めて、本を閉じた。
すぅと息を吐くと、少しだけ気分が晴れた。
モラトリアム駅発、新卒シャカイジン行き。
この電車は僕をどこへ連れて行くのか。それは僕の望む場所だろうか。たぶん、そうとは限らない。
どこかで乗り換えることもあるだろう。
電車をやめ、徒歩か、車か、あるいは飛行機に乗り換えるかもしれない。
行き先を見据えよう。景色を楽しもう。
なるべく、居眠りはせずに。
ホームに警笛が鳴り響いた。
もう間もなく、到着だ。
n番線のホームに立って、僕は電車を待っている。