話し言葉の「ウチ」と「ソト」 東昭二『なぜ、あの人の話に耳を傾けてしまうのか?』

読みました。
本書の目的は、言語を「私的言語(=ウチことば)」と「公的言語(=ソトことば)」に分け、僕らの日頃使うの日本語を振り返ってみよう、というもの。

日本語の「ウチ」と「ソト」

日本人や日本社会を読み解く上でたびたび使われる、「ウチ」と「ソト」という概念。それは単に空間を仕切ることばだけではなくて、たとえば「身内の人」「ウチの人」や、あるいは「外から来た人」というときの「ソト」というように、人や物に対しても広く日常で使われる。

ことばの「ウチ」と「ソト」なら、「ウチ」は自分がある程度よく知っている間柄や、親しい人たちに対してよく使われる崩れた言葉。「ソト」なら、たぶん一番わかりやすいのが敬語や丁寧語のような、フォーマルな言葉です。

花子は太郎からプレゼントをもらった
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微妙な違いですが、この二つはどちらがより「私的」で、どちらが「公的」か。

結論から言うと、「~から」はソト的、非個人的、公的な世界のことばであり、「~に」はウチ的、個人的な世界のことば。たぶん次の例なら、もう少し違いがはっきりする。

花子は東京大学から奨学金をもらった
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「ウチ」では饒舌、「ソト」では沈黙・・・・

近年はSNSなどの普及などもあって、日本語の「私的言語」の部分が肥大化して、「公的言語」がやせ細ってしまっている、というのが本書における著者の主張です。

もともと日本語や日本人の文化は「高コンテキスト」だと言われる。これは欧米などとは逆の、いわゆる「察し合い」の文化で、細かいことをみなまで言わずとも、互いになんとなく分かり合い、フォローし合っていきましょ、というもの。「KY(空気読めない)」なんて言葉が流行するくらい、日本人は「ウチの文化」に慣れ親しんでいる。

「ウチことば」は親しい間柄ならきっちりした言葉を介さずとも意思疎通ができたりする。心地よさやリラックスしやすいことは、ウチことばの良さだ。しかし反面、初対面の相手や公的な場での発言やふるまいが、日本人は苦手。はっきり明確に自分の意見を主張する必要があったり、よく知らない人を相手にするときは「ウチことば」は通用しないからです。「ウチ」では饒舌でいきいき喋れるのに、「ソト」となるとどう喋ってよいかわからず、だんまりになってしまう・・・なんて人も多いのでは。「内弁慶」なんて言葉がありますが、あれは家族や内輪内の「ウチ」の心地よさ、やりやすさに頼りすぎた結果の副作用なのかもな、と思ったり。


SNS、中でもツイッターなんかは僕もよく使いますが、まさに「ウチことば」の宝庫です。「○○かっこいいwww」「試写会落選したorz」「仕事つらたん」みたいな、初めて見るときは一瞬「ん?」ってなるような高コンテキストなやりとりが行われる。日本人がツイッター大好きと言われる理由の一つが、この「ウチことば」好きな文化にあるんでしょう。同様に、「2ちゃんねる」なんかでも、それぞれの板、スレッドごとに独特の文化や言葉遣いがあって、中には、その文化を理解した上で書きこむために「半年ROM(=Reed Only Member)れ」みたいな格言?もあったり。まさに「ウチ」の極地ですよね。


また最近ではLINEなんかのアプリもかなり広まっていて、今では女子高生の70%が利用しているとも言われる。そんな「ウチことば」の肥大化する現代日本で、公的言語である「ソトことば」を上手く使えない、あるいは、ソトとウチの区別がつかなくなる、なんて問題が起こってくる。ツイッターを使っててたまに見るのが、「ウチことば」に浸りすぎたあまり普通の対面では絶対使わないような言葉を―つまり「ウチことば」を―初対面の人にぶつける人がいたり、増えたりしているという場面だ。


こうした私的言語の肥大化、公的言語の痩せ細りは、何も若い人に間にだけ起きてることではなく、日本社会全体で徐々に起きている、広がっているのでは、と著者は指摘する。グローバル化や価値観の多様化で自分とは違う「ソト」の人と関わる機会が多くなるであろう日本において、これではマズい。

必要なのは、「私的言語」と「公的言語」のスイッチを切り替えて、場に応じた話し方を身につけることです。本書中盤~後半では「公的言語をトレーニングしよう」ということで、ゴルフの石川遼小泉純一郎のスピーチが紹介されています。なぜこの二人かと言えば、「公的言語」の扱いが非常に巧みだから。そして二人とも、世間ではかなり「好印象」を与えることに成功している、そういう人です。特に遼くんのほうは、なるほどと思うものが多い。

身近な話題でもあり、なかなか面白い本でした。

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