「親の呪縛」は幻想

上の子はしょせん試作品でしかない

3日くらい前に読んだエントリー。こういう家庭もあるんだなぁと思った。

僕も「上の子」だからなんとなく分かる。何事も初めてだから、人生の節目節目(小中高と学校や学年が上がっていく過程、受験等)で親も自分も手探りで進んできた。その後の弟や妹は当然自分の反省点を活かせるから最善手を打ちやすいし、それを見ていると自分が実験用のモルモットなんじゃないのって気がしてくるのも、いつものことだ。

とはいえ、五里霧中に進む中でとにかくやれることはやっとこうみたいなノリで色々と体験させてもらえたのも、長子だったからこそだと思っている。無駄も多かったが、寄り道するのも今考えれば悪いことばかりじゃなかった。それに、下の子に行くにつれ親が費用対効果の見極めに慣れて「効率厨」になっていくのは、昔ポケモン赤・緑で「ニビジムは岩タイプだからヒトカゲは論外。草か水タイプがいい。ハナダは水、クチバは電気だから普通に考えればフシギダネだけど…長期的に考えればゼニガメがベター!」とか考えていたあの頃の自分を想起させる。ま、いいんだけど、僕はヒトカゲを苦労してなんとかリザードンまで育て上げた嬉しさが忘れられない。


上記エントリーを書いた方は、言い方は少し厳しいけれど親離れできていないんだと思う。長子だからといって下の子の面倒をいつまでも見る必要なんて全くないし、そうしろと親に言われたところで、そんなものは無視していい。そうしなきゃいつまで経っても、自分の人生を生きられない。

筆者が何歳くらいなのかわからないけれど、流石に成人する頃には、このことに気づいてもいいと思う。親の呪縛や家庭の事情はあったとしても、ある程度自分で考えられる年齢になった後は、自己責任だからだ。結局のところある程度の年齢に達した人――つまり大人が――「親の呪縛から逃れられない」と言うのはとどのつまり「呪縛に囚われていたい」「不自由なままでいたい」からに過ぎない。そうした方が安心できるし、言い訳にもなるからだ。それまでの自分をリセットして新しい行動様式を手に入れるのは難しいけれど、でも少しずつでも変わらないと、誰も自分を変えてくれはしない。


自己啓発っぽくなってしまったけど、斯言う僕にも「親の呪縛」はあると思う。正確には「自分が『親の呪縛』だと認識している、自分にもっともなじみ深い行動・思考様式」だ。それが全て悪いものではないが、目に付くのはメリットよりデメリットの方が多い。何かある度、それを少しでも変えたいと思うんだけど、やっぱりすぐには変わらない。


「親の呪縛」から逃れる手段としては、一度親元を離れて見るのが一番いいと思う。僕は大学に入ってから一人暮らしをするようになったが、それだけでかなり心境に変化があった。親と自分を切り離して考えることで生まれた適度な距離感は、親子関係を前より良いものにしている。同級生で同じように親元を離れた友人も「一人暮らしして良かった」と口をそろえる。

ただ自分が「親離れ」したと勝手に思っていても、むこうはあまりそう思ってない節があったりする。それになんだかんだ言っても、経済的には親に頼りっぱなしだ。多少は自分で賄えても、学費や生活費を全て負担するのは現状無理があるし、その覚悟もない。はっきり言って口だけだ。だからこちらとしても強気になれない場面がたまにある。

そっちは今週かなり暑くなるらしい。熱中症に注意して、水分をよく取ること。

先日母から送られてきたメールの文面である。「水分をよく取ること」・・・我が親ながら、正直これが、ハタチを越えた息子に(わざわざメールで)掛ける言葉だろうかと思った。

なので以下のとおり返信した。

何その小学生扱い…俺もう二十歳越えてるけど、大丈夫?

これでもけっこうきつめに言ったつもりだった。
熱中症だろうがなんだろうが、自己管理くらい自分でできるし、できなかったとしても僕自身の責任でしかない。はっきり言っておせっかいだ。
多少角を立てぬよう配慮したつもりだったが、そういう意図を込めた。

そしてそれに対する返信がこれ

大人も熱中症いっぱいなっとるで。

あ~たしかに!


…ってそうじゃねーよ!


普段は僕も大学生らしく「モラトリアム最高!」ってかんじなんだけど、こういうことがある度、さっさと就職して自分でお金稼げるようになりたいと思う。初任給で親を旅行に連れて行くみたいな話あるけど、イニシエーションとしての手切れ金みたいな意味もあるんでしょうか。

罪と罰 (まんがで読破)

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