日本人はなぜ「権利」を主張しないのか

「権利行使には義務が伴う」というフレーズに対するよくある誤解 - 脱社畜ブログ

読みました。

「権利には義務が伴う」とか「権利と義務は表裏一体(ふたつでひとつ)である」みたいなことはこれまでの義務教育でもたびたび教えられてきた気がしてて、僕もそういうもんかと思っていた。そもそも「権利」という言葉の対義語が「義務」だと習ったので、その流れで刷り込みがあったのかなと思う。


日本人に「権利」という観念が欠けているのは、実は「権利」という言葉が欧米から輸入されてきた言葉であるがゆえに、日本ないし東アジアの文化的・伝統的風土に合わなかったのが大きいらしい。rightsという言葉の訳語として「権利」があるのだけど、これは権力の「権」と利益の「利」を組み合わせたもので、なんだか自分の利益のために力を行使するものみたいな、言葉としてはそんな印象を受ける。たしかに「利益」が欲しいというなら「義務」も発生してしかるべきかもしれないが、しかしそもそもrightsという言葉には「正しい」という意味が含まれているので、行使することに「義務」はいらないわけだ。主張して当然のものなのだから、義務が発生してはダメだろう。あの福沢諭吉はこのrightsの訳語として「権義」をもちいたらしい。「義」は「正しい」という意味だ。


rightsという言葉の背景をもう少し詳しく見ていくと、もともとは欧米における「宗教」の概念と同時に生まれたものだとわかる。rightsという言葉は、実は創立期のアメリカで宗教的なマイノリティの人々の「(信教の自由という)権利」を守るために生まれ、主張された。その「権利」は「義務」とふたつでひとつのワンセットなんかではなく、それ自体が尊重されるべき人権として人がもつものだ(信教の自由に義務があっては堪らない)。


では東アジアではどうだったかというと、欧米でいう「宗教」という概念はない、あるいはズレがあった。中国の裁判なんかでは儒教的な家父長的思想にもとづいて、判決が下された。それは具体的状況・具体的資質に応じて、また結果やバランス、妥当性に応じて下される。ようは「まぁあんたの権利認めてやってもいいけど、“お上”の権威に泥を塗るようなことにならん場合に限って、ケースバイケースで判断させてもらうで~」ってとこだろうか。そこには形式的な平等――建前ではあっても「対等」な関係である――という前提はなかったらしい。あくまで“お上がエライ”のだ。

・権利(rights)←→家父長制
・少数者にも権利(対立もやむなし)←→多数者で仲良く(仲良くお上に従おう)


じゃあ日本は、となると、日本には一般的に無信教者が多いことからもわかるように、西洋でいう「宗教」の概念は希薄だ。加えて中国の影響もあり、儒教という家父長的思想(年長者がエライ)が浸透している。さっき「文化的・伝統的風土に合わなかった」と書いたけれど、ここまででrightsという言葉がもつ意味や観念が日本人にとって肌に合わない考え方なのがわかると思う。“rights”という言葉を無理矢理日本に輸入しようとしたため、日本にもともとあった家父長的思想と混ざり合い歪曲して浸透して生まれた結果が「権利には義務が伴う」という誤解なのだ。ここでいう「義務」は「年長者と意見を異にするための条件」みたいな意味だろうと解釈してる。



ここからは余談だけど、権利の行使といえばまっさきに「裁判」が浮かぶ。でも日本人が「裁判嫌い」と言われるのは、よく耳にすることだと思う。『日本人の法意識』という本には「わが国では一般に、私人間の紛争を訴訟によって解決することを、ためらい或いはきらうという傾向がある」と書いてある。

日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)

日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)

わが国では、西洋ならば当然であるような場合に訴訟を起こすような者は、「かわり者」「けんか好き」「訴訟きちがい」等々の言葉で烙印をおされる。訴訟を忌避する態度は、ふかくわれわれの心の奥底に沈着しているのである。

さすがに今では「訴訟きちがい」はないだろうと思うものの、何かあればすぐ裁判、みたいな人がいたら、日本では白い目で見られるのは変わらないかもしれない。訴訟は権利義務を明確にするものだけれど、日本人の法意識でいえば、権利義務を明確しないことによって当事者どうしの友好な「協同体」的関係を維持することが重要なのだ。


とはいえ昔はそうだったかもしれないけど、実際今の日本ではどうなのか。最高裁HPの資料を見ると、ここ数年日本の簡易・地方裁判所における民事訴訟件数は年々減っている。下に挙げたのは過去5年間の推移。

地方裁判所http://www.courts.go.jp/sihotokei/graph/pdf/B24No2-3.pdf
簡易裁判所http://www.courts.go.jp/sihotokei/graph/pdf/B24No2-4.pdf

これだけ見れば、日本人にとって「裁判」がより身近になってきているとは言い難いのかもしれない。『法曹の比較法社会学』にある海外との比較を見ても、(2000年頃のデータではあるが)日本の民事訴訟率が373.5件であるのに対し、アメリカでは5411.9件というまさにけた違いの多さ。さすが訴訟大国、マックコーヒーで火傷して3億円ぶん取れる国だけはある。他にもイングランド&ウェールズが3600件、ドイツが2300件で、お隣の韓国も1530件となかなか多い。こうして数字を見ると確かに日本は「裁判嫌い」なんだろう。*1


法曹の比較法社会学

法曹の比較法社会学

*1:ひとつ付け加えておくと、日本人の権利嫌い、裁判嫌いが完全に文化的理由によるものなのかどうかについては諸説あるらしい。裁判でいえば ①法曹人口の少なさ(司法アクセスの悪さ)②裁判にかかるコスト(お金、時間)とそのわかりにくさ③判決の予測可能性の高さ なんかが挙げられるし、制度的な問題もありそうだ。政府としては裁判外紛争処理手続(ADR)なんて仕組みを推進中らしい。

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