血縁関係がたぶんもっとも強固

『エグザム:ファイナルアンサー』を観ました。

部屋に閉じ込められた5人の男女。唯一の出入り口である扉を開けるためには4つの暗証番号を手に入れなければならないが、それが手に入る条件は「誰かが死ぬこと」。一人死ねば一つの暗証番号、つまり最終的に生き残れるのは、5人のうちたった一人だけ――――という「究極の選択」系のサスペンスホラーだ。


展開としては割とありきたりだと思う。密室でギリギリの選択を迫られ、理性を失っていくさまを描いている。同じように誘拐され閉じ込められた者同士とはいえ結局のところ他人だし、殺さなければ自分が殺されるという状況になれば、誰もが自己愛を優先して同じ選択(他人を殺す)をとる、というわけだ。これを観ながら思い出したのが山田悠介の『ドアD』。小説だけど、ドラマとしてはこっちの方が面白い。

ドアD (幻冬舎文庫)

ドアD (幻冬舎文庫)

『エグザム:ファイナルアンサー』が互いに無関係の男女5人(唯一の共通点は同じ会社の就職面接を受けているという点)なのに対し、『ドアD』は確か7人くらいの大学生男女、サークルの友人同士。友情や恋愛感情が絡むだけあって生々しく、駆け引きはスリリング。こっちを知ってるだけに『エグザム』が見劣りするのはしょうがないかなーと観ながら思ってしまった。

「密室で究極の選択を迫られれば結局最後は人を殺めてしまう」という極限状態での行動があぶりだすのは、人間関係なんて突き詰めればしょせんその程度、という話なんだろう。こういった映画はつまり一種の思考実験だけど、例えば学校の教室という密室ではいじめが当たり前のようにある。たまにある「いじめへの消極的な加担(もしくは傍観)を貫かないと自分が次の対象者になる」っていうあれは、『エグザム』や『ドアD』を(人を殺しはしないぶんだけ)ちょっとマイルドにしたってだけで、状況としてはほぼ同じだ。


人間関係にはその強固さでいくつか段階があって、一般的には友情<恋愛関係<血縁関係だと思う。そう考えるとやっぱ、昔の企業の一族経営、つまり財閥とか、もっとさかのぼれば戦国時代――織田信長の姉だったか妹だったか、その人を浅田長政の人質として送ったりして結びつきを強めたというのは、商売の利害関係や単なる主従関係なんて、生きるか死ぬかの瀬戸際では脆いもんだとわかっているからなんだろう。いつの時代も、どこの国でもこういうことが行われてきたのは、血縁関係の(相対的な)強固さを示す証明だろう。でも信長は結局裏切られたんだっけな。ちょっとそのへんが曖昧だけど。


現代にしてもそれはたぶん同じで、日本と中国がその不仲を本気で解消したいなら天皇家中国共産党の幹部で血縁関係を持てばいい。経済的な結びつきはその時代の情勢で大きく変化しうるが、トップ同士の血縁関係が2,3代も続けばもはや切っても切れない関係になる。地球と言う密室に閉じ込められた日本と中国だけど、海を挟んだ親族同士が大規模な戦争を起こす確率はかなり下がるんじゃないかな。もちろんこれは現実的な方法とは言えないし、そう考えると文化交流みたいな地道な活動がゆくゆくは強い結びつきになる可能性もゼロじゃないんだろうなーと思ったりする。

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