それでも人は「期待」せずにいられない

先日書いたエントリに言及いただきました。

優しい人ほど他者に期待しない - 指揮者だって人間だ

僕の元記事では「大人になることは他人に期待しないこと」という、まさにその通りの趣旨で軽く触れただけでした。

今日はもう少し「期待すること」との向き合い方について、考えてみようと思います。



実は「期待すること」について僕が元記事で考えたのは、水野敬也さんの『夢をかなえるゾウ』のあるシーンが頭に浮かんだことがきっかけです。

夢をかなえるゾウ

夢をかなえるゾウ


そこでヘンテコなゾウの神様「ガネーシャ」はこんなことを言っています。

「期待は感情の借金やからなぁ」


ガネーシャはつぶやくように言った。


「まだ何も苦労してへんのに、成功するかもしれへんと言う『高揚感』を前借して気持ちようなってもうてんねや。でもそのうち、そんな簡単に成功できへんていう現実にぶち当たる。そん時『先に気分よくなってたんやから、その分返してもらいまひょ』て返済をせまられて、へこむことになるわな。これを繰り返すことで、どんどんやる気がのうなっていく」


そしてガネーシャは言った。


「そうやって、人は夢をなくしていくんやで」

ガッツーンとやられるフレーズです。確かにそのとおり、と納得してしまいました。


「期待」という言葉には何か前向きだったり、ポジティブなイメージがあります。「期待すること」はある意味「希望を持つこと」であり、一般的にそれはとても良いことだと捉えられがちです。ですが「期待」の本質は結構危ういものですよね。なぜならその期待が裏切られた瞬間、その期待が大きければ大きいほど、反動としての「絶望」「失望」も大きくなるからです。自己啓発本に影響されて「よしやるぞ!」と思ったはいいけれど、そう簡単には変われなくて、ますます自分にがっかりする。これはまさに「期待は感情の借金」だからです。


実は『夢をかなえるゾウ』自体「自己啓発本」です。これは水野さん本人が以前(どこで読んだかは忘れましたが)触れていました。つまりこの言葉を読者に投げかけることで、水野さんは自分の本自体にも“セルフツッコミ”を入れている。「『夢をかなえるゾウ』を読んで期待することも、借金だからね?」と。これはある意味「自己啓発本の否定」だという趣旨のことを水野さんは言っていましたが、変に読者をその気にして、あげくがっかりさせて知らんぷりなそこらの自己啓発本よりよっぽど誠実だと思います。



また期待というのは時に、自分ではなく他人に対してかけるものでもあります。冒頭のエントリーは「他人への期待」です。ですがこれも「感情の借金」であることには変わりない。だから他人に過度な期待をかけず、自分自身に責任を持つ、自立する、という意図を込めて僕は「大人になることは他人に期待しないこと」と書きました。


他人に期待をかけられることって、実はかなりストレスで、苦しいものですよね。

最近は中学受験、さらには小学受験なんてものもあるようです。たまにニュースになるたびに思うんですが、こういうのって子供が望んで受験しようとした結果なんでしょうか。もちろんその子に才能があるなら、それにふさわしい環境で力を伸ばしてあげるのも親の務めだと思います。ですが中には、そうじゃない子もいるはず。単なる「親の期待」から受験させられる、それで上手くいかなければもちろん、親はがっかりするでしょう。でもこれって、もともと親の「借金」を子供に押し付けてるだけですよね。「期待すること」の危険や脆さを認識できず、「自分の子供に期待すること」は文句なしに正しいと思い込むのは間違いです。
去年観た映画『そして父になる』にはそういった親子の関係が描かれていました。

そして父になる【映画ノベライズ】 (宝島社文庫)

そして父になる【映画ノベライズ】 (宝島社文庫)



何かに期待をかけることと言えばもう一つ思い出すことがあります。2009年に起きた民主党の「政権交代」です。今考えれば、間近であれほど大きな「期待は感情の借金」を体現した出来事ってないですよね。。。

当時の状況は僕も覚えてますが、とにかくテレビや新聞をはじめとしたメディアはどこもかしこも、国民の「期待」を煽っていたような気がします。自民党への「期待」がしぼんで、新しい「期待」の対象を欲していた日本は、民主党にそれをかけた。民主党もそれに乗っかった。

鳩山元首相の「最低でも県外」という言葉。米軍基地問題を抱えた沖縄の人たちにとってあの言葉は大きな大きな「期待」がかかったものだったでしょう。と同時に鳩山さんは、それだけ大きな前借をしてしまった。それがかなわないと知った沖縄人の怒りたるや、凄まじいものがあった。一時期はもう、一触即発みたいな状況でしたよね。期待を「借りた」分だけ、失望も大きかった。あれは政府と沖縄の間に、修復困難な傷痕を残しました。「期待」の脆さ、危険さを痛感します。


でもそう考えると、「政治家」という職業自体、期待を貸し付けるのが仕事なのかもしれない。



ここまで主に「期待すること」の脆さ・危うさについて思いつくことを書いてきましたが、それでも人は期待することをやめることはできません。主人公の「『期待』があるから僕たちは毎日生きていける」と言う言葉に、ガネーシャは答えます。

「自分の言うとおりや。そうやって人は生きていくねん。未来に期待して生きていくねん。期待がなくなったら、絶望してしまうからなぁ」


僕も自分にしろ他人にしろ、過度な期待はするまいと思うものの、やっぱり期待はしてしまうよなーと思います。


フィギュアスケートを観ればどうしたって真央ちゃんに期待してしまうし、金メダル当たり前っしょと思ってる。本田にはACミランでの大活躍を期待しているし、今はさすがに衰えが見えてちょっと残念だけど、イチローには毎年のように打率3割と200本安打を期待していた。
こういうスポーツなんかでは「期待するな」と言う方が土台無理な話だし、期待せずにみるスポーツって、絶対面白くないですよね。


僕もたまに身近な人に期待をかけてしまうことがあります。それも相手が背負いきれないほど行きすぎちゃいけないよな、コントロールしなきゃなと常々思います。
孤独で独りよがりな成功体験を積んで欲しい。 - ゆーすとの日記



一方の自分を振り返ってみても、やっぱりなんとなく将来はそこそこいい仕事について、お金もそこそこもらって幸せに暮らして、みたいな淡い期待がどこかにある。だんだん自分の才能や実力の限界を知っていくのも「大人」になるためには必要かもしれないけれど、将来への希望もないと生きる気力もわかない。「明日も楽しく暮らす」ことへの期待は、ずっと持っていたい。


とするこれはもう“「期待」との向き合い方”の話になるんだろうなと思います。持ちすぎると危ないけれど、持たずにはいられない、借金せずにはいられないこととどう折り合いをつけるか。


先程「期待を自分でコントロールしたい」と書きましたが、考えてみればそんなことできないですね。期待は感情だから、それを持つこと自体は止められない。それで僕なりに思うのは、“「期待している自分」をいつも認識しておく”ことが、できる精いっぱいのことだろうな、ということです。期待を抱く自分を常に第三者視点で観察しておく。自問自答する。


もうひとつ踏み込むと、百歩譲って「自分への期待」は仕方ない場合もある。自分に対してはいつも冷静になれるわけじゃないだろうし、時には、自分への大きな期待が原動力になる場面もあるんじゃないかな、と考えるからです。

ただし「他人への期待」は取扱注意です。自分が誰か他の人に期待をかけている時、常にその自分をメタ視点で見ていなきゃいけないと思う。スポーツ選手とかなら全然いいし、むしろ期待をかけて楽しむべきだと思います。ですが自分の手の届く範囲や身近な人、特に自分の方が立場が上だったり、相手がこちらの気持ちに抗えないような立場の場合、ほんとに注意が必要でしょう。これだけは何が何でも守る一線として、行きすぎないように常に自分を見張る癖をつけたい。

期待は必要だけど、一方で危うく、厄介なもの。慎重に使いたいものです。ご利用は計画的に!


以上です。

人を育てる期待のかけ方

人を育てる期待のかけ方

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