「客観的に正しいものが優れている」という風潮がつまらない

話しているとき、もしくは何か読んでいるとき。それが話している人、書いている人の「自分の経験・体験」から語られていないもの、客観性を重視しすぎているものはつまらないなと感じます。一方その逆、独善的なもの、主観的なものってすごくユニークで面白い。「なんでそう思うんだろう?」って好奇心を刺激されます。



何か話したいこと・主張したいことがあるとき、その話に説得力を持たせるためにどこか本やネットでみたこと、人が言っていたことを例に挙げる時がありますよね。あの人がこう言っていた、あそこではこう書いていた、って感じで。僕もやりがちなんですが、いざそれを聞く側に立ってみると全く面白くない。0とは言わないけれど、面白さは半減する。



逆に僕が面白いと感じる話って、完全にその人の経験・体験から考えたものなんです。人の主張とか意見の根底には必ず、自分の見たものや感じたもの、失敗談、成功談があると思うんだけど、そこに他人の権威とか客観性を被せちゃうと一気に面白くなくなる。もっともっと独善的に語ってほしい。



そんな大げさな話じゃなく、自分の身の回りで起こったことを語るのに客観性なんてほとんど必要ないんじゃないでしょうか。理由の一つは、「絶対的な真理なんてほぼないと言っていいから」です。客観性なんて追及してたらきりがない。その主張・意見の「正しさ」を追求するならそれでもいいと思うんですが、確実に面白味はなくなると思う。なかなか自分の経験と考え「だけ」から語れないのって、客観的な正しさにこだわっているからじゃないでしょうか。もしくは自分の考えに自信がないか。



確かに誰かの独善的な考えばかり聞いているのはちょっと疲れます。主観的であればあるほど応用が利かないし、得るものは少ないように感じるからです。ただそれでも、客観性に依りすぎるよりは全然いいと思う。その話・主張が自分にとって「正しい」かどうかは、自分が勝手に判断すればいいのです。語り部の方で“客観性のマント”を被せてしまわないほうが良い。その人のメッセージとか感情が隠れてしまうような気がするからです。その客観性や正しさは、聞き手の方で補えばいいのです。



主張や意見を述べるとき、「客観的に正しいもの」が優れているみたいな風潮があります。もちろん説得力を持たせて多くの人に共感してもらうには、誰にでも納得できる事実とかデータが必要なのかもしれないけれど、そういうのを意識しすぎているものって全然面白くない。ためになると感じることはあるし、そういうものが不要だといっているわけじゃありません。ただ面白いかといわれると、答えはノーです。何か話すにしろ書くにしろ、「客観性」に重きを置き過ぎたくないなと僕は思います。

客観性の刃―― 科学思想の歴史[新版]

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