大人になること

人はいつ大人になるんだろうか。
誰かを「あいつは大人だ」と思うのはどんな時だろう。

僕は既に成人式を終えているけれど、考えてみればそんな儀式的なものに関係なく、年齢など関係なく誰かを見て「あいつは大人だなぁ」と感じることはあった。それは大抵その人が『自分』を持っていると感じたときだ。


と、このままだとかなりフワフワした結論になってしまうので、もう少し説明を加えたい。


まず『自分』を持っている、というのはどういうことか。
僕は「自分の現状」と「こうありたい自分」がしっかり固まって、認識できているということだと思う。

今の自分が「どんな性格で」「何が好きで」「何が嫌いか」など、自分はこうであるという部分が理解できている。そうして初めて「自分の現状」が分かっているということだと思う。

また自分のあるべき姿、こうなりたい、こうでありたいという姿が描けていて、それに即して行動する。これが「なりたい自分」を認識しているということだと思う。


結局どういうことかと言えば、「自分は自分であり、他人は他人である」と理解しているということかもしれない。自分の在り方を他人の判断や行動によって左右されない、自分の在り方は自分で決める、と無意識にしろ意識的にしろわかっていることだと思う。



自分を顧みてみると、例えば僕の性格のひとつとして「優柔不断」というものがある。ポジティブに言い換えれば思慮深いとか慎重ということになるだろうか。
正直僕は、あまりこの性格が好きではない。パッと何でもすぐに決めてしまえる人を見るとすごいなと感じる。

しかしここで自分の性格を受け入れることこそが「自分の現状」を理解しているということなのだろう。ここで自分の性格に劣等感やコンプレックスを抱いてしまうというのはつまり、自分の現状と理想に距離があるということだ。そのギャップについ目が行ってしまうばかりに自分の性格が好きになれない。本当はそんな理想などどうでもいいのだ。まずは自分の現状を知る=自分を受け入れることから、「大人になる」ことははじまるんじゃないか。そんなことを最近思うようになった。


ただしもう一つの要素、「こうありたい自分」を知ることも必要だと思う。
「自分の現状を知る」ことが自分との葛藤ならば、「こうありたい自分」を固めるのは他人との葛藤だ。注意したいのは、これは決して「高い理想を掲げる」ということではないということだ。

ある状況があって、それに対して他人が何をしようと、まずは自分がどうしたいかを問う。自分が「こうありたい」というものが先に在って、そこから逆算して自分の行動を決める。決めたらそれに忠実に動く。ここでよそ見をすると迷いが生じてしまうのだと思う。一言でいえば自律するのである。自律するとはつまり自分の「こうありたい」に忠実であるということだ。例えそれが「あまり頑張らないで、まぁ適当に」とかならそれに忠実に、「どんな時も一生懸命」ならそれを貫くということである。「こうありたい」は自分が本当に望んでいるものでないといけない。そこで自分に嘘をついても長くは続かないだろう。
また自分にとって大事なものが多すぎる場合は、やはり何かを捨てる必要があるだろう。優先順位を付けると言い換えてもいい。何かを選択するたびに自分の判断基準を絞り、何が本当に大事かをはっきりさせる作業が要る。


ワンセンテンスでまとめると

大人になるとは「自分の現状」を理解していることであり「こうありたい自分」に忠実であること。



以上。

大人の流儀

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