加害者が負うべき「罪と罰」

山本太郎さんのこともあって今は少し話題が移っているが、みのもんたの次男が窃盗容疑で捕まった事件がニュースになっている。その次男の罪自体ではなく、みのもんたの「親の責任論」、つまり「30歳を超えたいい大人の責任を、その親が取ることの是非」が主な論点になっているように思う。


みのもんた本人が言っているが、「みのもんたの子供でなければ、これほどの騒ぎにはならなかった」ことだよなぁとは思う。ただこれはみのもんたに限らず、少し知名度のある芸能人・有名人なら誰にでもいえることだろう。今までも似たような事件はたくさん起きていて、みのもんた本人がニュースの司会としてそれを報じ、時に批判もしてきた。しかしだからといって、この事件に関して必要以上にみのもんたの責任を問い正したり、世間からのバッシングをメディア等が助長してもいい理由にはならないと思う。そもそもみのもんたに「責任」なんてないし、確実に人生に狂いが生じたろう。個人的には同情する気持ちが強い。


一連の報道を見ていて、昔読んだ本を思い出した。東野圭吾の『手紙』という小説である。知らない人も多いと思うので、簡単なあらすじを引用する。

強盗殺人の罪で服役中の兄、剛志。弟・直貴のもとには、獄中から月に一度、手紙が届く……。しかし、進学、恋愛、就職と、直貴が幸せをつかもうとするたびに、「強盗殺人犯の弟」という運命が立ちはだかる苛酷な現実。人の絆とは何か。いつか罪は償えるのだろうか。犯罪加害者の家族を真正面から描き切り、感動を呼んだ不朽の名作。 
文春文庫『手紙』東野圭吾 | 文庫 - 文藝春秋BOOKS

簡単に言えば、殺人を犯した兄の罪を背負って生きる弟を描いた話だ。初めて読んだのは高校一年のころだったと思うが、かなり衝撃を受けた。中でも印象的だったのは、「加害者の罪によってその家族までもが非難と差別の対象になる。それも含め、加害者本人の罰である」という言葉*1だ。


加害者が罪を償うために刑務所に入るのは当然だ。しかしその罰は、本人に降りかかるものだけにとどまらない。加害者の家族までもが「身内に犯罪者がいる」という目で見られ、レッテルを張られ、差別と非難の対象になる。それも含めて「加害者が負うべき罪と罰」である――――これを読みハッとしたのを覚えている。犯罪を犯すのが悪いこと、それはもちろん分かっていた。しかしそれまでは単に「犯罪を犯したら自分の家族にも迷惑がかかる」というふわっとした曖昧な認識によって「罪を犯し、被害者を生み出すこと」を捉えていたからだ。当然罪の重さにもよるが万が一のことがあった場合、「迷惑がかかる」なんて甘っちょろいもんじゃない。他人の人生を壊すのだ。


自分が刑務所に入れられるだけならまだいい。しかし実際は自分の家族が非難と中傷にさらされ、差別を受ける。しかもそれがほぼ一生続く。それを「理不尽だ」と叫ぶことさえ許されない生き方を、家族に強いるのだ。


今回の事件はもちろん殺人ほどの重罪ではない。みのもんた本人の罪ではないし、理不尽な批判も受け、かなり悔しい思いをしているだろう。だがそれも「次男が犯した罪と罰」のひとつなのだろう。それは良い悪いではなく、現実だ。世間に大きな影響力をもつ「朝の顔」の息子として、負わねばならない罰なのかもしれない。


こういうことが起きたとき正論を糧に加害者を誹謗中傷するのは好きじゃないし、これを書いたのは決してそういう意図ではない。何か起きたとき、その原因の一端は、実は自分にもあるんじゃないかと問い直す機会にしたい。自戒を込めて。

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*1:文章の正確な引用ではない

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