僕の「東京タワー」

僕の父は結構、物を大事にする人だ。今はもうないけれど、十数年も前に買ったテレビをずっと使っていた。そんな父がなかでも大事にしているものがある。腕時計だ。別にブランドものというわけでもないし、古ぼけてたくさん傷のついた、平凡な銀色の時計だ。
なんでさっさと新しいのに買い替えないんだろうと、僕は子供のころから思っていた。

東京タワーは今や東京だけでなく、日本と日本人の中で象徴的な建物だ。
着工当時は工事の騒音などで周辺の人々から煙たがられるも、完成と同時に多くの観光客を集めたという。そして今や東京という場所の象徴として、目印としてそこにある。もはやただの電波塔ではない。


東京タワーの「扱い」には面白いものがある。例えば『ゴジラ』などの怪獣映画では、東京を襲う怪獣にぶっこわされる。なぜ東京タワーをぶっこわすのかというと、それが人々に「リアリティのある絶望感」を与えるからだろう。東京の中心にいつもあるはず赤い塔がなくなる。するとなんとも言えない無気力感、心にぽっかりと穴が開いたような喪失感におそわれるのだ。


時は経ち平成になると、今度は東京タワーを「昭和の象徴」として懐かしみをもって捉えるものが多くなった。『ALWAYS 三丁目の夕日』や『東京タワー~オカンとボクと、時々、オトン~』などである。その中で東京タワーは常に、物語の「背景」としてそこに在る。漫画やテレビ、音楽でも同様である。日本の歴史、東京の歴史、そして人の歴史の中に、常にバックグラウンドとして東京タワーはそこに在った。

多分これからもそうである。

あるとき何を思ったか、父にこう聞かれた。

「父さんの時計、いるか?」

差し出されたそれを見ると、例の腕時計だ。いったい何十年使ってるんだろう。あちこち錆びついて痛んでいる。

「いや、いらない」

僕は答えた。

「そうか」

そういって再び、父はそれを腕に着けた。「スカイツリー」に買い替えるつもりだったかな?


一方僕の左腕には、すでにちょっと傷のついている、銀色の腕時計が光っていた。
僕の「東京タワー」である。

東京タワー―オカンとボクと、時々、オトン (新潮文庫)

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