就職活動を終えて思うこと


就活もそろそろ終わりが見えてきたので、終わった体で色々と総括してみます。

「お祈りメール」はやっぱり嫌いだしサイレントなんてもってのほか

いきなり愚痴から。いわゆる「お祈りメール(不採用通知)」の話。

就活生を奈落の底へ突き落すお祈りメール。僕もありがたいことに沢山いただくことができて、一時期は今後のご健勝を祈念されすぎて神になりかけました。当然だけど大嫌いだった。といっても、不合格を知らされてへこむから嫌いなわけじゃない。気に入らないのは、どの企業も判で押したように「今後ますますのご健勝を心からお祈りいたします」と最後に付けたすこと。


就活生ならみんな感じてると思うんだけど、なんでどの企業もみんな「お祈り」するんでしょう?いくら日本が八百万の神住まう国だからって祈りすぎなんじゃないの?エントリーシートや面接なんかじゃマニュアル人間は真っ先に忌避されるというのに、人事部で採用を司る人がみな当然のように同じような文面のメールを送ってくるというのは、なんというか気持ち悪いとすら思う。文章自体はコピペしてもいいのだから、もう少し人間味のあるやり取りがしたかった。


で、まぁ百歩譲ってお祈りメールはいいんです。だが「サイレントお祈り」よ、テメーはダメだ。

「サイレントお祈り」は読んで字の如く、選考が終わったあと何の連絡もなく就活生を放置して不採用を「察する」ことを求めてくる。不合格を知らせない理由は企業によっていろいろあるだろうし、学生側にも不合格なら通知なんていらないという人もいるでしょう。でも正直、せっかくお金と時間をかけて選考を受けてくれた学生に対して、いくら不合格だからって何の連絡もよこさないというのは失礼だと思うんですよね。「メールがなきゃ祈れねぇとでも?」と言いたげな態度が気に食わない。


単純に学生側としても、不合格なら不合格とはっきり言ってくれないと気持ち的にも不安になるし、次の選考はあるのかどうかとか、スケジューリングにも支障をきたします。経験則だけど合格なら少なくとも1週間以内には連絡が来る企業が多いので、不合格の方も同じ時期に出そうと思えば出せるはず。それをしないのは企業側の怠慢でしょう。こっちだって暇じゃないのだ。


うちはB2B企業だし不合格で今後関わることもないから扱いもテキトーでいいや、と人事の人が思ってるなら考えが甘い。なぜならその就活生は同業他社、あるいは同じ業界・業種に入社して働く可能性が高いからです。通常、就活生はある程度業界をしぼった上でエントリーする企業を決めるので、A社を受けてダメだった学生でも関連業界に入社する可能性は十分ある。とすると、将来A社とも仕事上で取引するかもしれない。つまり悪びれることなくサイレントお祈りを行う厚顔無恥なクソ企業は、将来の「お得意様」の心象を悪くするか、もしかしたら失っているかもしれないのです。やーい。


就活で傷ついた経験というのは意外と馬鹿にできない気がするし、そういうよくない噂というのはけっこう学生の間(先輩後輩や友達同士)で共有されます。だから、将来自社の利益を毀損するかもしれない「サイレントお祈り」をあえて行う理由はないと思うのです。

就活中のメンタル&モチベーションコントロールについて


ちょっとノウハウ寄りの話。

就活を終えてみて――というか活動中ずーっと感じてたことだけど――最も重要だったのはメンタルとモチベーションのコントロールをいかに行うか、だったと思います。結果論にはなりますが僕が就活で大きく失敗しなかったのは、自分のメンタルと就活へのモチベーション維持にかなり気を使ってたのが大きいと考えてます。


結局、就活というのは8~9割の企業にどこかの段階で落とされます。すると当然、落ち込むわけだけど、これは自分の気の持ちようでずいぶんと変わってくる。

僕は就活中「第一志望」と決め打ちした企業を作りませんでした。つまりほとんどすべてが第一志望「群」の企業。他の人がどうか知らないけれど、第一とか第二志望の企業ってのを自分の中で決めてしまうのはかなりリスクの高いやり方なんじゃないか、と他の学生の話を聞いたりしてても思います。これが大学受験であれば、なるべく早く第一志望の大学を絞り、過去問から逆算して勉強計画を立てるのがセオリーですが、就活ではよほど実力のある人でないとそのやり方は危うい。

攻撃力・命中力を高めて一つの的を狙い撃つのが受験だとすれば、就活は「数打ちゃ当たる」の精神でいくべき競技。一方的に志望できる受験と違い、双方の意思が一致した場合のみ成功するのが就活なので、ある程度視野を広くもちコンスタントに力を注ぐのが吉だと思います。


たしかに、志望度をはっきりさせることでその企業にかける熱意も上がるし、その気合が企業研究や面接に反映されるのはいいことではある。しかし反面、突破力を高めた分だけ上手くいかなかったときはダメージがデカいのです。気合を入れて臨んでみたはいいもののあっさり落とされた場合、しかし自分の気持ちはそう簡単に急ブレーキをかけられないので、下手するとそのまま崖へ真っ逆さまです。狙い球をしぼった大振りでホームランを狙うのはいいけれど、三振連発じゃ点が入る見込みはないのです。

もちろん自分が高学歴ハイスペック野郎で就活強者だという確信があるならホームラン王を狙ってみるのもいいけれど、僕みたいな凡人に必要なのは、長打でなくていいからまずはバットにボールを当てること、ヒットを打つことだと考えていました。


あえて志望度をはっきりさせないのは、落ちた時のダメージを考えた予防でもあるし、また昨日今日知ったような企業に対する志望理由や有名企業へのイメージなんてのが全くあてにならないと考えていたからでもあります。東証一部上場企業だけで1800社もある上、学生の知っている企業なんてたかが知れてます。そのなかで自分が勝手に選んだ「第一志望」の企業が本当に自分に合っているか、長く働けるかどうかなんて実際は入ってみなきゃわからない。わからないなら、志望度で企業をランク分けすることに意味はない。ランク分けすればで選考への力の入れ具合にもムラが出るでしょう。とにかくヒットを量産しその中でチャンスを伺おうと考えるならば、志望度の明確化はかえって仇になる。


スケジュール変更のあった16年卒は特にそうだと思うけど、就活中は「いつ終わるのか」「このやり方で正しいのか」という右も左もわからない中で継続しなきゃいけない。それなりのコストをかけてやっと選考にこぎつけた企業にはメール一本であっさり落とされる。そんな理不尽で一寸先は闇のような、出口の見えないトンネルにいるような状況でいかに結果を出すかといえば、切れ目なく安定してアウトプットし続けるより他はないのだと思う。

100の力で全力疾走はできないが、かといって全力を出すタイミングを自分で決めればいいというものでもない。とにかく取りこぼしがないよう、最もコスパの良い70くらいの力で「そこそこ頑張る」を続けるのがいいと、僕は実際やってみて思いました。


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前にも少し書いたけれど、僕は就活をそれほどつらいと感じたことはなかった。もちろん時期によっては日に何社もお祈りされて落ち込んだり、先が見えなさ過ぎてモヤモヤしたり悩んだり、単純に体力的にキツかったりもしました。学歴や資格があるわけでもないし、コミュ力はどう高く見積もっても並程度。

ただ、毎日のようにスーツを着て電車に乗って、あちこち歩き回る日々になんとなく充実感を感じていて、楽しいなと思える瞬間もけっこうあった。たとえば、就活中に出会った他大学の学生と帰りの駅まで話しながら歩くのは楽しい。たいてい、選考を通して出会うのは似たような業界を志望している学生なので情報交換にもなるし、雑談しながら会話の瞬発力を鍛えてみたり、単純に新しい人に会って話すことにわくわくしていたりもしました。


自分で言うのもなんですが、僕はたぶん「業界選び」に成功してたんだと思います。当然だけど企業や業界によって、そこを志望する人間のカラーや傾向というのがあります。自分と似たような志向をもった人間が集まる場所を、最初の段階でなんとなく見当をつけていて、実際そこで会う学生とはウマが合う人が多かった。絶対この業界で就職しよう、ここならたぶん大丈夫、という無意識の確信があったからこそモチベーションを保てていたのかもしれない。


「就活は相性」なんていうけれど、だったらやっぱり自分と似たような人がいて、自分に共感してくれる場所を見つけに行くべきなんだと思う。と、考えると、結局のところ業界やら企業やら言うけれど、大事なのは「自分を知っているかどうか」なのかもしれない。


「人生のピーク」に何を成すか

ふと、「人間としての人生のピーク」に何を成すか、という問いが浮かんで、それについて考えてたりなどしていた。

単なる思いつきなのでぼんやりしたイメージしかないけれど、ここでいう「人生のピーク」は、自分の人間としての、あるいは動物の一個体としてのパフォーマンスが最高潮に達する時期だ。言い換えるなら、自分の身体的な能力(体力・気力)や精神的な成熟ぐあい、あるいは頭脳が、人生でもっともよく働く、一番いい状態であるとき。身体的なことでいうなら、通常、10代後半~20代後半の10年くらいがピークだろうし、メンタル的な部分はフレッシュさと成熟度のバランスがいい塩梅になるの頃、たぶん20代後半~30代後半だろう。頭脳なら10代後半~30代前半といったところか。

身 × 心 × 知 = その人の生み出すパフォーマンス

こんな式が仮にあったとして、僕はここで最も重要なのは「身」、つまり体力や気力だろうなと思ってる。少なくともその人が直接何かを生み出すような場合に限って、体力や気力の充実具合は他のふたつより影響がデカい。ってことで勝負は20代後半だ。あとはオマケかなんかだろう。


映画『風立ちぬ』でカプローニが堀越に語りかけた言葉を借りるなら、「創造的人生の持ち時間」というやつだ。人間といえど一個の動物に過ぎないのであれば、当然その個体のパフォーマンスには浮き沈みがあるはずである。たぶん俗に天才と呼ばれる人たちほど、この壁にぶち当たり悩んできたんだろう。あの頃はよかったとか、もう才能は枯れてしまったのか、なんて言われながら自分と戦っているんだろう。

そんな天才じゃなく「普通」の人ならば、はたから見てそれほど際立ったピークなんてないので気楽かもしれない。けれど自分の人生の主役はいつも自分なので、やっぱりその人なりの「創造的人生の持ち時間」はあるんだと思う。であれば、その時間を使って何をするかという問題はけっこう重要だ。


おそらく他の多くの人にも当てはまるであろう、体力・精神・頭脳のパフォーマンスが最高潮に達する時期(たぶん25歳から35歳のあいだ)で何を成すか。人としてある意味もっとも輝ける時間を何に投資し、何を生み出すのか。生きる意味なんてそもそもないけれど、それでも何か見い出すならば「自分が一番いい状態のときに力を尽くして生み出したもの」が、あとで振り返ったとき、その答えに似たものを見せてくれるんじゃないかなんて思ったりする。

裏・表があるくらいで人間はちょうどいい


一人でいるときや親しい人の前で見せる自分と、より公的な場で見せる自分は違う。まぁ意識しなくたって自然と使い分けてる人が多いと思うんだけど、少し前まで僕は自分の中にそういうギャップがあることに違和感というかバランスの悪さをかんじていて、なるべく両者を統一しておきたいと思ってた。こういう心の作用自体は自然なことなのかな思うものの、気を付けておかないと危険なことなのかも、と最近は考えてる。


いわゆるブラック企業と呼ばれるところでこき使われ、過労死する人がいるらしい。そういう人はある種の洗脳状態にあるのだと思うけれど、ここでいう洗脳とはつまり「本音と建て前を切り替えられなくなった状態」「本音と建て前が同化した状態」なんじゃないか、と思うのだ。両者のギャップがひどくなれば、それに耐えきれず建て前を自分の本音と思いこもうとする。すると自分の気持ちの中でバランスもとれるし、不安定な状態からは逃れられる。自分の置かれている環境へ適合できるから楽になる。でも実際は自分の心を相手にあけ渡してて、キケンな状態だ。

うつ病になる人には生真面目な人が多いらしい。ここでいう真面目さって、「オモテでは要領よく周りに合わせたり打算的なことも口にするが、ウラではその真逆のことを平然としてのけたり、普段仲良くしてるように見える人の悪口も言う」こういうのに罪悪感を感じたり、なんらかの義に反するような気持ちが強いことを含んでるんじゃなかろうか。


建て前と本音の切り分け作業がうまい人って、比較的明るい人が多い。「自分は今建て前を話している」「今は本音を話してる」こういうのを自分でわかったうえで話してるうちは健全なんだろう。言ってることや態度にあまりにギャップがあるとただの信用できない人だけど、「自分」ってものが他より曖昧で影響を受けやすいと自覚してる人ほど、ある程度ウラとオモテを意識的に切り分ける術を身につけといたほうがいいんだろうなぁと思う。程度によるが、人間、裏表があるくらいでちょうどいいのだろう。

ビッグリバーシ

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